第2回講座 2月5日(土) 午後2時~

講座名 「安藤昌益は八戸で何をしていたか その3」

講師 近藤悦夫氏  昭和23年八戸市生まれ。八戸高校、大阪大学歯学部卒。医療法人藤和会理事長・近藤歯科医院院長。安藤昌益を育てる会会員。八戸歴史研究会会員。

安藤昌益とは

 秋田比内二井田村(現在の大館市)の農家に生まれる。元服前後に京都に上り、仏門に入った(寺は不明)。しかし、仏教の教えと現状に疑問を持ち、医師である味岡三伯の門を叩いた。ここで医師としての修行をし、八戸で開業する以前に結婚し子ももうけている。

 八戸の櫓(やぐら)横丁に居住し開業医となった。延享元年(1774)8月の八戸藩の日記には、櫛引八幡宮の流鏑馬の射手を治療したことが記録に残されている。同年に八戸の天聖寺にて講演を行う。宝暦8年(1757)にも同寺で討論会を開いている。その後、出羽の国大館に帰郷。弟子の神山仙確は八戸藩主の側医。

 郷里の本家を継いでいた兄が亡くなり、家督を継ぐものがいなくなった。このため、宝暦8年ごろに二井田に1人で戻った。結局、家督は親戚筋から養子を迎え入れて継がせたが、昌益自身も村に残り村人の治療にあたった(八戸では既に息子が周伯を名乗って医師として独り立ちしていたため)。なお、宝暦10年前後には、八戸の弟子たち(真栄道の弟子)が一門の全国集会を開催し、昌益も参加した。参加者は松前から京都、大阪まで総勢14名。その後再び郷里へ戻り、そこで亡くなった。

昌益の思想とは

 身分・階級差別を否定して、全ての者が労働(鍬で直に地面を耕し、築いた田畑で額に汗して働くという「直耕」)に携わるべきであると主張した。徹底した平等思想を唱えている。 特に著書『自然真営道』の内容は、共産主義や農本主義、エコロジーに通じる考えとされているが、無政府主義(アナキズム)の思想にも関連性があるといわれている。またこの書の中で安藤は日本の権力が封建体制を維持し民衆を搾取するために儒教を利用してきたとみなし、孔子と儒教を徹底的に批判した。後に在日カナダ大使であるハーバートム・ノーマンの手により、『忘れられた思想家―安藤昌益のこと』が記されることで周知の人物となった。

講座より

 安藤昌益が八戸に在住していた15年間を、3回にわたって紹介してきた講座の最終回。昌益が八戸で経験したうちで、最も苛烈を極めた宝暦4年から8年までを語る。宝暦4年の年こそ豊作だったものの、翌年の5年は大凶作。続く6年は「世上一等の困窮・・・金銭不通用(未曾有の困窮を蒙り、金銭はあっても食べ物が買えない状態である)と藩日記に書かれているほどの被害。さらに7年は全国的に凶作であり、八戸藩も売るものはほとんどなく、僅かな大豆、干鱈、煎ナマコなどを売ってしのいだ。8年はようやく落ち着いたものの、打ち続いた凶作からまだ立ち直れないでいた。

 こうしたなか、八戸城下で開催したと考えられる「良演哲論」集会の準備段階から昌益一門の行動は隠密の度を深めていく。宝暦7年8月の集会後、昌益門下の高橋大和守は息子と共に八戸を離れ、やがて親子ともども出奔と判明して大騒ぎとなる。また門弟の高弟である神山仙庵、北田市右衛門いずれも病気を藩に届出。さらに昌益一門の達人と称され、志和代官を務めていた福田六郎はあらぬ嫌疑をかけられ、藩から問責を受けて逼塞の罪科を受ける。宝暦8年の10月、昌益は妻子を八戸に残して一人八戸を後にする。

 宝暦という年は八戸藩ばかりでなく、全国的にも飢饉に泣かされ、世上は混乱していた。こうしたなか、昌益一門が説く思想は藩にとっては「危険思想」と映ったのではないか。冒頭の「昌益の思想」でも触れているように、昌益は平等思想を貫き、孔子と儒教の批判を掲げている。昌益の思想は幕府にとっては無視できないものであり、それを放置していたとあっては八戸藩にも類が及びかねない。いわば昌益は八戸藩にとっては「厄介な存在」となっていたいたのではないか。なんの問題も残さずに一門が自然消滅してくれるのを藩は望んでいた。とも考えられる。


昌益は八戸に何を残したのか

 昌益は八戸にやってくる以前からある事を憂いていた。それは強い薬のために多くの人が死んでいる現状であり、医者は自然を理解しなければならないと訴えていた。当時、自然を理解するためには「易学」を中心とする陰陽五行説に依らなければならず、八戸に来往した昌益は求めに応じてそれを説いていた。しかしどうしても不明だったのが「天は貴く、地は卑しい」という言葉の意味である。あるとき門人の示唆を受けた昌益は、「それは支配者が作り上げたものだ」ということに気づかされる。それを契機に「陰陽の二気」ではなく、「一気の自然真の進退」。「陰陽の二別」ではなく「二別一真=互性」であると閃き、「自然真が営む道」すなわち「自然真営道」の体系を組み立てていく。そして男女をヒトと呼ばせ、上下、善悪等を差別した法に縛られず、不耕貪食の徒のいない無盗・無乱の「万人直耕の自然世」を説き、「百年後には四民平等で平和な時代がやってくる」と、八戸の領民に生きる希望と勇気を与えたのである。彼には幕府の消滅と維新の到来が見えていたのだろうか。