ルーズベルト(1882~1945) 63歳

障害をちながらも4選を果たした大統領
 民主党出身の第32代アメリカ大統領であり、アメリカ史上唯一4選をはたし、重度の身体障害を持つ大統領としても知られているフランクリン・デラノ・ルーズベルト。1932年、大統領に選ばれると行政府主導の革新的立法を要求、銀行救済、農産物価格安定、失業者救済、テネシー川流域開発公社(TVA)の設立、企業活動や労使関係の国家規制、金本位制停止などの政策を次々と実現。36年の大統領選挙で再選をはたし、国民からの人気と信頼を維持しつつ40年に3選、44年には異例の4選をはたした。
   
 在任中の39年に第2次世界大戦が勃発すると、連合国側を支援することが参戦回避の道だと主張、武器貸与法などによる積極的軍事援助をおこなう。41年12月、日本の真珠湾奇襲を契機に参戦を決意し、連合国の戦争目的や戦後国際秩序の構想に指導的役割をはたした。参戦後は、アメリカ・イギリス・ソ連3大国の大同盟を重視し、カサブランカ・カイロ・テヘラン・ケベック・ヤルタなど、一連の首脳会談を通じて、戦争協力体制・戦後処理、国際通貨基金や国際連合など、戦後国際機構の構想を具体化すべく活躍したが、45年4月、第二次世界大戦が終了する目前で脳溢血のため63歳で死去した。

死因をめぐって様々な説が飛び交う
 巷間伝えられているルーズベルトの最期はこうだ。1945年4月11日夕刻、「第二の国務長官」といわれたヘンリー・モーゲンソー・ジュニア(ニューヨーク州ユダヤ系資産家の長男。ルーズベルトのもとで財務長官をつとめた)は、ルーズベルトから呼び出されジョージア州ウォーム・スプリングスにある「小さなホワイトハウス」を訪れる。玄関まで出迎えた車いす姿のルーズベルトを見て彼は驚く。あまりの急激な老け込みぶりに彼は「身の毛もよだった」という。そして晩餐を囲みながらの会話は子供時代の話や亡くなった友人のことばかりで「なんのために私を呼んだのか」と訝った。倒れたのは翌日だから最期の晩餐である。彼の最期を看取ったのは愛人のルーシー・ラザフォードで死の間際、「私は大統領を辞めたい」と言って笑みを浮かべ、それが彼の最期の言葉となった。

 ところが、ルーズベルトは病死ではなく毒薬を投与され、殺害されたという説を唱えるのがカーティス・B・ドールと、エマヌエル・マン・ジョセフソンだ。馬野周二氏の著書『操られたルーズベルト』のなかに「世界最大の帝国の首長が、彼の長年近親し、その言うがままに動き、そのためにほとんど為さざることのなかった者たち――その首魁の一人はヘンリー・モーゲンソー・ジュニアとされている――の手によって毒を盛られ、挙句の果てには闇から闇へと葬られた」(ドール)という一文がある。さらに続けてこうも書かれている。「ニューヨーク在住の医師で、州政界でも一時活躍していたというジョセフソンは、はるかに複雑な正に驚くべき報告をしている」と。かいつまんで紹介するとこうだ。

 1943年末、スターリン、チャーチル、そしてルーズベルトの連合国3巨頭がテヘランで会談した。その会談終了直後、ルーズベルト、チャーチルの二人が謎の重病を患う。チャーチルは生命の危機にまで陥るが、ペニシリンの発見者であるアーサー・フレミングによって事なきを得た。一方、ルーズベルトも全身の激しい疲労と痺れを訴える。この症状をある医師はこう断言した。「これはアメリカン・インディアンが矢尻に塗る毒の症状に酷似している。このままではゆっくりと、確実に死へと至る」と。この毒はロシアにも存在し、スターリンはこれによって政敵であるレーニン、クラシンを葬ったといわれている。この毒薬の話はアメリカ政府関係者にも伝えられ、トップシークレット扱いとなる。

大統領の遺体はどこに眠り、影武者は誰だったのか
 テヘランからの帰国後、彼の写真は遠くからのスナップ以外、撮ることは赦されなかった。表情にはただならぬ死相めいたものが漂っていたのであるから無理もない。ジョセフソンは想像であると前置きし「帰国して間もなく彼は死亡したのではなかろうか。それ以降、彼を演じたのは影武者だと思われる」と言っている。44年の4選を果たした際、そして45年のヤルタ会談出席、さらには最期の晩餐に赴いたのは、いずれも影武者だったのではないかというのだ。スターリンは「ルーズベルトの遺骸はアメリカにはないはずだ」と断言。それを確かめようとしたのか、ルーズベルトの葬儀の際、ソ連(当時)大使が強硬、執拗に棺を開けて検死を求めたものの、それはかなわなかった。ルーズベルトの亡骸はニューヨーク市にあるウッドロン墓地に眠っているが、同墓地は軍人および墓地管理者によって今なお厳重に警備され、何人たりとも掘り返すことは許されないままだ。

 では誰が、一体何の目的でルーズベルトを亡き者としたのだろうか。当時、ホワイトハウスと国務省の中で進行した秘密の計略を知る立場にあった前出のドールは自著で「ルーズベルトはある勢力によって操られていた」と書いてある。そのある勢力とは、「戦争を引き起こすことによって大きな利益を得る集団、すなわち国際金融エスタブリッシュメントと、国際共産主義者たちである」と。それが事実なら、本物のルーズベルトはどこに眠り、影武者は誰だったのかなど、多くの謎が残される。
参考資料・出典
「操られたルーズベルト」  馬野周二著 プレジデント社(1991年)




「新聞販売の神様」と呼ばれ、名誉会長に就任してからも影響力を発揮する

務台光雄(1896~1991) 94歳

 今でこそ世界有数の発行部数を誇る読売新聞だが、戦前は弱小の地方紙にすぎなかった。その読売を驚異的な部数にまで押し上げた功労者が務台光雄である。明治生まれの気骨さで波乱に満ちた人生を乗り切った。

 読売新聞社(現・読売新聞東京本社、読売新聞グループ本社)の社長、名誉会長を歴任。94歳の天寿を全うするまで読売の最高実力者として君臨したのが務台光雄である。
    
 務台は早稲田大学を卒業後、繊維会社を経て1923年報知新聞社に入社する。報知はその頃、東京で最大の部数を誇ったこともあるが、関東大震災で社屋が焼失したのを機に部数は激減、社内の内紛にも嫌気がさして務台は退社する。その務台をスカウトしたのが読売新聞の正力松太郎である。読売新聞は昭和の初期まで1ブロック紙に過ぎなかったが、この二人が手を携えたことで読売新聞を全国紙にまで押し上げることに成功する。5万部の小新聞を終戦前には約200万部まで増やし、戦後は毎日、朝日を抜いて世界有数の発行部数を誇る新聞にまで育てあげたのである。その辣腕ぶりから務台は「販売の鬼」「販売の神様」などと呼ばれる。その一方で貪欲な事業展開、凄絶な人事抗争に明け暮れ、「ワンマン」「天皇」と揶揄されもした。明治生まれの務台の精神的バッグボーン、それは「負けてたまるか」だった。

 行動力と集金能力を鍛えた大学時代
 務台の頑健な肉体と強靭な精神力は少年期と青年期に培われた。名門の松本中学では野球部に所属し、正三塁手として活躍。早稲田大学では弁論部に入部すると同時に、孫文を支援するための倶楽部を発足させ、資金集めにも奔走する。こうした経験が「よく切れる刃のような知性」「霊感ともいうべき洞察力」「感傷に流されない自己規制力」を養ったと指摘するのは、『二人の販売の神様 務台光雄と神谷正太郎』を著した長尾遼である。
   
 そんな務台が事業面で二度の大きなピンチに立たされたことがある。昭和40年、社主であった正力の我意を通し九州に読売新聞を進出させたものの、予想以上に赤字が累積、さらに読売ランドの債務保証も20億円以上に膨らんだのだ。販売面の責任者だった務台は責任を感じて副社長に辞表を提出し、箱根から伊豆へと旅に出る。だが正力らに説得されて再び古巣へと戻っている。二度目は昭和50年の新聞の値段をめぐる問題だ。順調に部数を伸ばし、毎日を引き離してトップの朝日に迫っていた矢先の出来事である。正力が亡くなり、社長に就任した務台は「中部読売」創刊を独断で主導した。当時の一般新聞は朝刊1カ月で1300円。これに対して中部読売は500円。キャッチコピーは「コーヒー3杯で1カ月新聞が取れます」だった。たちまち同業他社からダンピング批判が巻き起こり、公正取引委員会が乗り出した。公取はついに読売新聞に対しても立ち入り調査に踏み切る。独禁法を精査せず「不当廉売」に該当すると考えなかった。「販売の神様」と呼ばれた務台も法解釈にはやや厳密さを欠き強引すぎたのである。

入院しても気になった経営と人事
 1883年、87歳にして務台は代表取締役名誉会長となる。名誉会長といっても依然として社の実権を握っていた。後継者となる渡邉恒雄は毎日2時間、役員食堂で昼食を共にしたという。務台は自分が考案した販売店への手数料システムのことや、他紙の販売店を読売側に鞍替(くらが)えさせた武勇伝などを楽しそうに話した。また演説をはじめたら一時間でも二時間でも大声を張り上げ続けるといわれ、細かい数字をつぎつぎに挙げて論ずる記憶力の良さも誇っていた。

 その一方で務台は何度も倒れたが、そのたびに不死鳥のようによみがえった。病床にあっても常に経営と人事のことを気にかけたという。昭和53(1978)年に倒れたときもそうだった。病名は解離性胸部大動脈瘤。渡邉も「今度ばかりは駄目だろうと思った」。ところが務台は奇跡的に全快し元気に出社するようになる。平成3(1991)年4月には膵臓がんと老衰で入院。このとき務台は渡邉に2通の封書を渡す。その1通は「小林与三次殿」と表書きされた遺言状であり、中には「渡邉恒雄君を次期社長にすることを、何卒(なにとぞ)何卒(なにとぞ)よろしくお願いします」と書いてあったという。

 為郷恒淳は著書『読売外伝 わが心の秘録』のなかでこう記している。「読売で50年もの間、算盤をはじき、好きな絵を見て歩き、家ではお湯につかりつつ小唄を唄い、そして野球がオープンすると会社にあってもデスク前のテレビの前に大きな座布団を据えてその上にドッカと座り、ストライク、ボールと、たった一人で大声を発しているのである」と。子どものような自由奔放、無邪気さ。これもまた務台の長命を支えた秘訣でもあろう。

PLOFILE
1896年長野県南安曇温村(現・安曇野市)生まれ。読売新聞社(現・読売新聞東京本社、読売新聞グループ本社)の社長、名誉会長。読売巨人軍の実質的オーナーでもあり、長島茂男、王貞治の監督解任にも深くかかわったとされている。

長寿のヒケツ
食事
好き嫌いは特別なく、出されたものはなんでも食べたという。
趣味
演劇、絵画鑑賞。スポーツ観戦。登山など。
健康法
「常に頭を使い、仕事をすることが健康を保ち、長生きする秘訣である」が持論。