リンカーン(1809~1865)56歳

 第16代アメリカ合衆国大統領、エイブラハム・リンカーン。彼は1809年2月12日、ケンタッキー州ハーディン郡で農場を営むトーマス・リンカーンおよびナンシー・ハンクス夫妻の息子として生まれた。1860年の大統領選挙で共和党所属として初の当選をはたす。奴隷制の拡張に反対し、大統領就任はアメリカ合衆国を二分し、南北戦争に結びつく。戦争中に彼はアメリカ史上その前任大統領に比べ最も多くの権力を手にし、その非常大権によって封鎖を宣言、人身保護令状を保留し、議会の認可無く支出を行い、個人的に戦争を指揮して北部連邦を勝利へ導いた。偉大な解放者、奴隷解放の父と呼ばれる一方で、暗殺された最初の大統領としてもその名を歴史に残した。

家族と共に囲んだ最期の晩餐
 リンカーン大統領暗殺事件は南北戦争の最末期、1865年4月14日金曜日(聖金曜日)午後10時ごろに起こった。当日のリンカーンの行動を追ってみよう。その日の午後、ホワイトハウスでは智将、猛将として知られるグラント将軍を交えて閣僚会議が開かれた。議題は主に戦後処理や南部の指導者たちの処遇、処罰などについてである。閣議が終了した後、リンカーンは妻のメアリー・トッドと馬車に乗り、これからの生活について楽しげな会話をしている。大統領の任期が終わったら、故郷のスプリングフィールに帰り、弁護士を再開するか、あるいは農場でも経営するかなどである。ホワイトハウスに戻ると夫婦はロバートとタッドの子どもたちを呼び、家族水入らずで夕食を囲む。これが最期の晩餐となった。

 その夜、夫婦はフォード劇場へ「われらのアメリカのいとこ」という芝居観劇に行く。リンカーン自身は職務の疲れがあり、観劇にはあまり乗り気ではなかったのだが、南北戦争で息子を亡くし、寂しがっている妻のために気を利かせたのだ。夫婦に同行したのはヘンリー・ラスボーン少佐と婚約者のクララ・ハリスである。職務に手間取ったせいで、夫妻らは開演には間に合わなかったものの、何事もなくフォード劇場に到着、案内されてボックス席に入る。大統領が左側のロッキングチェアに座ると同時に劇は一時中断され、観客とキャスト一同が歓呼をもって迎えた。そして観客たちと観劇を楽しんだ。
観劇中、暗殺犯に射殺される。

 午後9時ごろ、メリーランド州出身の俳優ジョン・ウィルクス・ブースが劇場の裏口に到着する。彼は北軍に属し、これまでに何度もリンカーンの誘拐、拉致を計画したがことごとく未遂、失敗に終わっていた。リンカーンを暗殺して北軍に有利な状況を作り出そうと画策、乗り込んだのである。俳優としてフォード劇場を知り尽くしていたブースはリンカーンのいるボックス席に易々と入り込み、気づかれないようドアにつっかえをした。そして約2メートルの至近距離からリンカーンの頭を狙い、右手に持ったテリンジャーの引き鉄を引いたのである。銃声と共にリンカーンの体は揺り椅子の中でがっくりと倒れた。目的を果たしたブースは観客に向かって「シク・センペル・ティラニス」(ラテン語:暴君はかくのごとし)と叫んだ。妻や同行者の悲鳴が劇場に響く。とっさにラズボーン少佐がブースに飛びかかるが、ナイフで腕を切られる。ブースはそのすきに貴賓席のバルコニーから階下へと飛び降りる。異変に気づいた観客、関係者が足を折ったブースを追ったものの、彼は楽屋口から外へと走り、つないであった馬に飛び乗って逃げ去った。

息子たちが眠る墓地に葬られる
 貴賓席では妻のメアリーが倒れたリンカーンの体を支え起こそうとしたが、夫の頭はぐらりと彼女の肩に落ちた。劇場にたまたま居合わせたリールという若い軍医補が駆けつけ、リンカーンを絨毯の上に横たえ応急処置をほどこす。そこへさらに医師などがやってきて人口呼吸をほどこすと、いくらか脈拍がはっきりしてきた。だが医師たちの表情は沈痛だった。頭部に命中した弾丸は致命的であり、回復の見込みはないと診てとったからである。それでもリンカーンは医師たちの手で近くの民家に運ばれ、懸命な手当が行われた。しかしその甲斐もなく翌15日の午前7時21分、家族、閣僚、親しい人々に囲まれて息を引き取る。リンカーンの亡骸はホワイトハウスと国会議事堂で盛大な葬儀の後、4月21日、ワシントンから特別列車で故郷スプリングフィールドに向かい、二人のわが子が眠るオークリッジ墓地に葬られた。

 ちなみに犯人のブースは11日間の逃走の後、農場にある納屋の中で共犯デイヴィッド・ヘロルドと隠れているところを騎兵隊に包囲された。ヘロルドは投降したがブースは拒否したため、騎兵隊は小屋の周りに火をつけた。その火に照らされたブースをボストン・コーベット軍曹が狙撃、首の後ろに命中し、これが致命傷となってブースは死亡。共犯者とされた者たちは軍法会議にかけられ、暗殺の罪でデイヴィッド・ヘロルド、ジョージ・アツェロット、ルイス・パウエルおよびメアリー・サラットの四人に絞首刑が下された。なお、メアリー・サラットはアメリカで処刑された最初の女性となった。
参考資料・出典
「新装 世界の伝記50 リンカーン」 山主敏子著 ぎょうせい(1995年)




「世界の真珠王」が本領を発揮したのは50代。独特の健康法で長寿をまっとう

御木本幸吉 96歳
「うどん屋の倅」から「世界の真珠王」への道のりを歩んだ御木本幸吉。多難な人生だったものの、長寿をまっとうできたその秘訣は、生来の粘り強さと彼が独自に考案した健康法にあった。

 上品な光沢を放ち、その形から「月のしずく」「人魚の涙」とも呼ばれ、世界各地で古くから宝石として珍重されてきた真珠。養殖真珠の歴史は古く、13世紀の中国などで既に行われたが量産するまでには至らなかった。養殖による量産化を成功させたのは、志摩国(三重県)鳥羽でうどんの製造販売をしていた御木本幸吉である。英虞湾神明浦で阿古屋貝の半円真珠の養殖に成功。明治38年(1905)には英虞湾の多徳島で真円真珠の養殖にも成功、同40年には真円真珠の特許権を取得、「世界中の女たちの首を真珠で飾ってみせる」と事業に乗り出す決意を固める。このとき幸吉はすでに50歳だった。

 大正8年、イギリス・ロンドンの宝石市場に世界初の養殖真円真珠が売り出された。本場の貴婦人たちが魅了されたのはいうまでもない。だがその2年後、イギリスの大衆紙「スター」が驚くべき告発記事を掲載する。「日本の養殖真珠は精巧な模造品であり、これを販売するのは詐欺行為である」と。御木本はすぐに訴訟を起こし、昭和2年「養殖真珠は天然真珠と変わらぬものである」とのお墨付きをもらう。これにより御木本は「世界の真珠王」の名を冠するのだが、70歳代になってからも一人息子の破産、戦時中の「贅沢品追放」のあおりを受けるなど、順風満帆とはいえない人生を歩む。それでも96歳の長寿を保ちえたのは、持ち前の粘り強さに加え、健康への配慮が人一倍あったからである。

規則正しい生活が基本中の基本
 昭和の初期、幸吉が70歳のとき、東京日日新聞の「私の健康法」という質問に「御木本式健康8カ条」と称して以下のように答え、晩年まで実践し付けた。
① 40年間を通じて毎朝5時に起床。朝食前には二本杖での運動をし、水欲を欠かさず、夜は上腹部から下腹部に向かってのマッサージを約数十回したのち8時に就寝。
② 60歳までは主食は麦飯3杯、サツマイモ1椀。61歳からは麦飯1杯に減らした。副食は朝は味噌汁1杯、生卵1個。昼は野菜もの。夜は魚または鳥肉と梅干1個。
③ 酒、煙草は厳禁。
④ 盛夏といえども腹巻を離さず、厳寒にはシャツを着用せず襦袢、股引を着用して薄着に徹する。冷暖房機器などには頼らない。
⑤ 夜の宴会などはもってのほか。いかなる場合にも午後10時には床に就いている。列車の旅は好きで利用するが、夜行列車は睡眠を妨げるので乗ってはならない。
⑥ 寝室は二階または高台を選び、厳寒の候といえども風通しの良い場所を選ぶ。
⑦ 風呂は一番風呂に限る。一年に数回は健康診断を受ける。
⑧ 夏は伊勢朝熊山で約2週間の避暑をし、英気を養う。
 80代後半になると松葉杖に頼るようになったが、これは足腰が弱ったからではない。松葉杖を使うことで4本の足になり、若い頃のように早く歩けることを知ったからである。その証拠に88歳の折には、真珠養殖を見学に訪れた進駐軍の連中の目の前で、海女たちと一緒に見事な水泳を披露しているのである。

大ボラ吹きも健康法のひとつ
 ストレス解消法がユニークである。「放談」だ。すなわち「大言壮語」、「ホラ吹き」、「大風呂敷」であり、これは幸吉の生涯にはついてまわった。これを作家の源氏鶏太は「彼の長寿の重要なポイントになっているのは間違いない。幸吉のホラはある意味で自分の理想を喋っているのであり、ホラを吹きまくっているうちに何らかのヒントを得、事業上のプラスになったことが少なくなかったであろう」と指摘している。

 90歳になると食事はさらに少食、内容も質素になっていった。意識的に朝食よりも夕食を少なくした。これは「胃腸とともに休み、胃腸とともに寝るため」である。そのため食事量は「朝3、昼2、夜1」の割合を守った。そして野菜を食べなくなった分、オレンジを毎日欠かさずに食べた。そのせいか、老人にしては肌に張りがあったという。
幸吉の目標は99歳まで生きたロックフェラー1世だった。信心深い彼はよく神仏に「長生きできますように」との願をかけたものだが、96歳でその生涯を閉じた。

PROFILE
1858年志摩国(現三重県)生まれ。1896年半円真珠の特許取得。同年4月、妻・うめ32歳で死去。1908年、真円真珠の特許権を取得。1918年には良質な真珠の大量養殖に成功、宝石市場に真珠の地位を確立させる。1954年、96歳で死去。

長寿のヒケツ
食事
若い頃は暴食したが初老期からは粗食と小食に徹した。ご飯に味噌汁、サツマイモが中心で、小魚と菜っ葉類が副食。
健康法
若い頃から気分転換の散歩は欠かさず、70代からは入浴の際にお湯を足でかき混ぜる体操を日課とした。
趣味
自らも語っているように「特記すべき趣味や娯楽は持たず、ただ事業に専心するをもって無上の楽となす」。