プロローグ
 青森県三戸郡三戸町。岩手県二戸市に隣接する人口約1万2000人の小さな町である。農業が盛んであり、りんごは県南の主要産地、葉タバコの売上高も全国有数規模として知られている。また、赤ちゃん土偶(沖中地域)、合葬人骨の発見(泉山地区)など、縄文期の貴重な遺跡がある町として、熱心な考古学ファンには馴染みがあり、春のゴールデンウィークともなれば、城山公園に咲き誇る約3000本の桜を愛でる人々でごったがえす。

 この三戸町には今も「会津三碑」と呼ばれる墓碑が残されている。明治4年に建立された、わが国最古の「白虎隊の墓」、明治19年に建てられた会津藩日新館館長「杉原凱の墓碑」、そして明治27年に建てられた「戊辰殉難者招魂碑」である。これらは廃藩置県後も三戸町あるいは周辺地域に残り、会津武士としての誇りを守り、受け継いだ旧斗南藩の人々によって建てられたものだ。逆賊、朝敵と呼ばれつつも数々の苦難に耐え、新政府への反骨心を忘れることなく、新生青森県に根ざし「会津士魂」を地方自治や教育界を始め、各方面で花開させたそのシンボルでもある。この会津三碑についての詳細と、ゆかりのある人々の談話を交えながら、三戸町周辺における斗南藩士たちの苦しく厳しい生活ぶりと、捲土重来を果たした人々の足跡を追ってみた。

 会津藩、南部の斗南へ

 古来、三戸は糠部(ぬかのぶ)郡の一部であり、名馬の産地として全国に知られていた。
 数百年にわたり、広大な領地を治めていた南部藩だが、やがて領内に支藩ともいうべき八戸藩と七戸藩が設けられる。幕末の慶応には奥羽越列藩同盟に加盟し、薩長連合の新政府軍と戦ったが、慶応4年9月新政府軍に降伏、こうして糠部その他20万石の南部藩の支配は消滅する。明治元年、14代藩主利剛(としひさ)は総督府命令によって東京に召還され、菩提寺である芝の勝林山金地寺に謹慎。同年、利剛の長男である利恭(としゆき)が13万石を賜り、仙台藩領であった白石城(白石藩)に移されるものの、罰金70万両を明治政府に納める条件で(実際は一部を納めたのみ)半年後13万石で盛岡に復する。しかし明治3年には財政が逼迫し、明治4年の廃藩置県に待たずして盛岡県にしてもらい、同県を経て岩手県へと改称、藩領の大部分は新生岩手県の主要部分となったのである。

 古くから南部領域であった三戸町もまた、岩手県に組み入れられてもらえるはずだと誰もが思ったに違いない。だがそうはならなかった。二戸(金田一以北)、三戸、北(七戸を除く)の三郡は新政府の直轄地となり、明治2年11月には斗南藩3万石が設置されることになったのである。斗南藩とは会津藩のことである。

 明治元年10月、戊辰戦争に敗れた会津藩主の松平容保と世子の喜徳(のぶのり)および家族は東京に召還される。新政府に領地を没収された会津藩は、旧領の猪苗代か、旧南部領の一部を新領地にするかの選択を迫られる。首脳陣による議論は紛糾し、斬り合い寸前まで揉めたものの、移住反対派は会津にとどまり、藩としては旧南部領の地に斗南藩として再興を賭けることになった。

 明治2年9月になって容保と喜徳の禁固が解かれ、容保の実子である容大(かたはる)が幼くして家督相続を許され、旧南部藩領であった一部地域(二戸郡金田一村以北の三戸、五戸、野辺地、田名部)を3万石として賜り、立藩を許可される。容大は併せて北海道の四郡(瀬棚郡、太櫓郡、歌棄郡、山越郡)の支配をも任された。ただし、土地の豊かな七戸、八戸は意図的に拝領地からはずされたため、実高は7000石に過ぎなかった。
 
 明治3年4月、三戸一帯の取締りにあたっていた黒羽藩は、旧三戸代官所において斗南藩に対する領地引継ぎの手続きを完了する。斗南藩では最初、藩庁を五戸代官所跡(現五戸町)に置いた。旧会津藩士および家族たちが、会津、東京、新潟などから移住を開始したのは、この手続きが完了した翌日からである。この後、明治4年7月14日をもって廃藩置県が行われ、弘前、八戸、七戸、斗南、黒石などが県と改称、同年9月にこれらを弘前県に合併、同年9月23日には青森県と改称され、現在の青森県が誕生するのである。すなわち、斗南藩とは実質1年半ほどの短命の藩だった。開拓にはほど遠い荒涼とした地に会津藩、松平家の再興の花を咲かせようとした人々の無念さと落胆は計り知れない。そして移住した人々は次々と北郡や三戸郡の地を後にしたのである。

命がけの移動と移住

 斗南への移住が開始されたのは前述のとおり明治3年4月からである。士族総数4000戸のうち2800戸、総数約1万7000人あまりである。「続会津の歴史」(葛西富夫著)によるとそのうち三戸郡(当時は三戸町、田子町、五戸町、新郷村など)への移住人員は約5600人、うち旧三戸町には800人ほどが移住したといわれている。

 移住するにあたり、斗南藩では新政府に対して移住費と移住後の生活費として一時金と米3年分の拝借を願い出ている。会津戦争によってほとんどの家屋敷は荒れ果て、めぼしい物品も新政府軍による「分捕り」合戦の末にほぼ略奪され尽くし、大半が無一文だったからである。これに対して新政府は御扶持米ならびに移住手当緒入費として3万石を即時に、残り1万5000石を9月に下渡し、それより先の7月には東京や若松・越後高田でまだ斗南に移住していない者の移住費や生活費として玄米1200石、金17万両を下渡した。また、斗南藩としても陸路を辿る者や家族に対し、旅籠代(食費込み)は後に藩が一括して支払うことを条件に、各自に12銭5厘の宿札を多数持参させた。だがこれはさほど役には立たなかった。というのも明治2年、南部の領地は大凶作だったため、明治3年は米価が高騰する一方だったのである。しかも朝敵、賊軍であり、新たな小藩となった斗南藩の宿札であっただけに、宿泊に難色を示す旅籠が多く、盛岡では宿泊は渋々許可したものの、食事は粥のみという宿も少なくなかったという。

 移住といっても今のように準備万端整えてというわけではない。大半が着の身着のままという有様である。生活に最低限必要な衣類や什器類などを持つのがせいぜいであり、斗南の地に落ち着いてから生活道具を送ってもらうよう計らった家族などはごく少数だった。

 移住方法は船による海路と、陸路の二つに分かれた。東京に謹慎していた斗南藩士約300名は明治3年4月17日に蒸気船で品川を出帆する。常陸沖、磐木沖、金華山沖を経て19日に鮫港(八戸)に上陸、翌20日に三戸入りを果たしている。このルートの他に、西回りルートもあった。会津や越後高田から新潟まで出て汽船に乗船、野辺地に着いてから五戸、三戸へと移った人々である。多くが山国の会津から出たことはなく、海を見るのも蒸気船に乗るのも初めてという人々であり、船酔いに苦しめられたと各種の記録にある。

 船酔いに苦しめられたものの、海路ルートで斗南にたどり着いた人々は恵まれたほうだった。移住地までに数日を要しただけであり、風雨にさらされることなく横になって休むこともできたからだ。哀れだったのは陸路を選択した、選択せざるを得なかった人々である。道路が今のように整備されてなかった仙台道、松前道を辿っての斗南入りは、健康な男女でも相当な不安が募ったに違いない。しかも老人や病人さえも混じっていたのである。会津藩では老人や病人に限り、駕籠代は政府が面倒をみてくれるよう懇願した。だが「賊軍・朝敵であるから駕籠の使用などはもってのほか」と許可はおりなかった。

 白虎隊士として飯盛山で自刃した間瀬源七郎の姉、間瀬みつも家族総出で斗南に向かうことを決意、手記「戊辰後雑記」にこう書き記している。「若松を出発する時には、私ども一家に対し、人夫1人宛、年寄りには駕籠を用意してくださるとのことで、そのつもりでおりましたところが、猪苗代に着いてみますと、年寄りに駕籠を出してくださるということが沙汰やみとなりましたので、私共一家にとってこれが一大難儀のことになりました。そうかといって老母を南部まで歩かせることもできず、南部の三戸まで駕籠を雇わねばならず、これに対する毎日の支払いのため、最初の予定が大変狂ってしまいました」と嘆いている。みつ家族はまだ金銭的に余裕があったようだが、大半の移住者は長旅が困難な老人、病人を僅かな荷物と共に大八車に乗せて引いた。持ち物は家系図と位牌、そして飯炊き釜とわずかな什器類である。所持金もほとんどないまま数十人、百数十人単位で黙々と北上する姿はまさに難民の群れであった。

 陸路ルートでも気候に恵まれた春から夏にかけて移住を果たした人々はまだましだった。悲惨だったのは初秋から晩秋にかけて斗南を目指した人々である。今でこそ温暖化の影響だろうか、10月の終わりまで暖かい日が続くが、一世紀前の青森、岩手では、その年によっては9月に早くも晩秋、10月にかけては冬の天候を迎えたことが記録にも残っている。こうした中、移住者たちは一日に3回、4回と草鞋を取替え、冷たい雨やみぞれや叩かれ、着替えもままならず、かつおぶしをかじって空腹に耐え、悪路をひたすら斗南を目指したのである。しかし道中での苦難に耐え切れず途中で脱藩する者も続出、行き倒れになって路傍に絶命するというケースも少なくなかった。

 老人や病人を抱えての陸路での移住はやはり無謀な行為といえた。「太政類典第1編第93巻」によると、会津若松から病気のまま病院から移住した者は119人いたという。彼らに移住の指示が出されたのは初冬の10月。新天地である斗南の地にたどり着くことなく、飢えや寒さにより仙台や盛岡などで絶命した人々は少なくない。また、斗南の地に足を踏み入れて間もなく無念の死を迎えたケースもあった。現岩手県二戸市にある聖福院という寺には、斗南藩士の墓と呼ばれる墓石が二基ある。伝承によれば会津藩士の妻が下僕らしき侍とともに斗南の目的地へ向かう途中、健康を害して下斗米の地にとどまり、下僕は明治4年3月に、女性は同年5月に亡くなったのだという。女性は「中野藤蔵」(甲賀之者 大目付支配 9石3人扶持か?)の妻であり、下僕らしき侍は「鈴木丈助重興」と墓碑には彫られている。彼らが目指した地はどこだったのだろうか。

 晩秋に陸路を経て三戸へ向かった一団のなかに、大庭勇助の一家もいた。この大庭家は後述するが、三戸町に移住後、勇助の子である恒次郎、茂、紀元の三氏が三代にわたって三戸町の教育界に多大な貢献をした家柄であると同時に、「会津三碑」とも深い関わりを持つ。戊辰戦争で勇助(当時44歳)は青龍隊(藩士のうち36歳から49歳の者で構成。朱雀隊とともに会津正規軍の中核をなして各地で激戦を展開した)に属し、猪苗代で奮戦、戦後は越後高田藩に収容された。勇助はいったん会津若松に戻り、家族と再会を果たした後に旧知行地の処分を済ませる。そして一家は妻こよ、母さき、長女よし(11歳。三戸移住後、白虎隊隊士で自刃した林八重治の弟林茂樹に嫁ぐ)、長男の恒次郎(6歳)を伴い、斗南へと旅立ったのは明治3年10月19日のことである。

 大庭家に伝わる「記事留」には斗南までの旅程と会計等が詳しく残されている。それによると一家と同行したのは63人。うち7歳以下の子供は5人。3歳以下1人。この一団の取締(団長)は赤井伴助。彼は戦時中、進撃隊(会津城下戦では佐川官兵衛支隊として突出、交戦)に所属し、戦後は勇助と同じく越後高田藩に収容されていた。勇助は一手御払い方、すなわち手形、旅費、現金などの取り扱いを担当する。一団は猪苗代、仙台、一関、盛岡などの主要な旅籠に宿泊、16泊17日を要して無事に三戸入りを果たした。路銀の総支出は1186貫80文。当時の貨幣価値に換算すると86両余りである。勇助一家のほかにも会津で家や土地を処分し、僅かながらも金銭的余裕のある家族がいたらしく、そのため他の移住者たちよりも比較的スムーズに長旅を果たせたらしい。