三戸という地域は貧しく野蛮?


 会津藩の人々が移住した明治初期の三戸郡は、どのような地域だったのか。「青森県歴史」に書かれているものを簡単にまとめると以下のようになる。

 「東西16里、南北9里から7里。村数22、戸数1万4800余、人口8万6700余り。高地や峠が多く、高地は不毛で耕作地は10分の1に過ぎない。民は渓谷に住み、水田には米を植え、陸田には雑穀を撒く。牛馬を牧し、山仕事や猟を行い、暮らしは貧しい。市街をなしているのは八戸、五戸、三戸である。毎月、日を決めて市場が開かれ、農夫は五穀薪炭を持参して日用品と物々交換し、帰路酒屋に入って財布を傾け、舌を鳴らして鯨飲飲歌し、歓娯をきわめる。性情は頑愚で、商売人は倨傲(きょごう)で農夫を奴隷のように見下している」。

 間瀬みつは秋から冬にかけての三戸をこう記している。「三戸町に出るといろいろな用事を足すことができました。三戸の家数は500かまど(戸数)と言われています。この辺は風が強くて毎朝夕、風がひどくなります。風の強い時は歩いていて転び、膝を傷つけることも間々あります。冬になればぬかり道で大難儀であります。会津のように道路に石があるのではなく、土ばかりであります。雪が降っても溜まらず、薄雪で屋根の雪下ろしなどということはなく、風があるので冬は大変に寒く、道に雪が積もれば板でさらい、会津のような『こうしぎべら』というようなものは見られません」。

 前述したように三戸郡は藩政時代より交通の要衝であり、宿も整い、人と物が絶えることなく行き交う賑やかな商業の町だった。同時に古来より水田や畑などの耕作地は少なかったものの、大豆を始めとする雑穀が収穫でき、豊かな山々からは木を伐りだしての薪や炭などの生産も盛んであり、下北などの北郡と比べると住むには恵まれた土地柄といえた。とはいうものの、戊辰戦争の敗戦により20万石から13万石に減封され、しかも白石へ移封と混乱を極めていた。戸数、人口ともにさほど多くなかった各村や町の人々は困惑しつつも、共に戦って敗れた会津の同士を迎えざるを得なかったのである。

 旧盛岡藩三戸代官所御物書役を務めた石井久左衛門父子が書き残した「萬日記」には、移住者への同情と戸惑いがこう書き記されている。
 「会津なども23万石御取り上、日本一の粗地吟味の上、昨年来未曾有の凶作の場合下され候と見え候」(明治3年1月26日)
 4月20日に三戸入りした一団は各家に5人、10人または大家では14、5人ずつ割り当てられることになった。久左衛門家でも会津藩士鈴木英八の4人家族が割り当てられている。「藩士1人につき畳2畳の割合で住居が与えられることになり、宿を申し付けられた家はどこも大騒動である。政府から与えられた玄米1人4合、光銭8文では一家が生きていく額としては少なすぎるし、下宿させる側も気が引ける。双方ともまことに気の毒というしかない。」(同年4月28日)

 斗南藩少参事の広沢安任と親交を結び、後に広沢が牧場を経営する際には共同出資者となった八戸藩大参事の大田広城(ひろき)も日記にこう記している。
 「会津藩の新領土たる地は8割から9割は不毛の土地柄であり、耕作して落ち着く家などは望むべくもない。しかも彼らは当面の生活に必要な家具、寝具はおろか薪炭、塩、味噌などにも事欠いている。百姓家一戸に6、7人も押し込まれて雑魚寝、雨露さえ凌げない状況にある人々も少なくない」。

 旧会津藩士十倉新八家族の場合、最初の住まいは五戸の農家をあてがわれた。天井もなければ畳もない8畳間に一家5人が肩を寄せ合ったのである。「これではまだ馬のほうが幸せだ」と嘆いた。間もなく彼らは三本木、函館へと移り、晩年は村長などを歴任する。

 初秋から晩秋の陸路を経てようやくたどり着いた一団は間が悪かった。不毛の土地柄とはいえ、僅かな耕作地、田畑を持った農家は収穫で多忙を極め、それら収穫物を商う商家も多忙を極めている最中だったのである。「収穫の季節になり、各家々に長々の下宿では狭くて困るとの意見が出ている。そこで百姓家では下宿免除を願い出た」(萬日記 同年10月2日)。「会津藩、10月25、6日ごろより日々250人づつ陸路を辿り着いたのはしめて8000人。うち5000人ほど引越しとなり各家々に下宿割りとなる。老若男女何れも歩行にて日数18、9日を要した。この時期の夜は冷たいのに、服は薄く、荷物は5貫目に限られている。いかに逆賊の汚名を着せられたとはいえ、同胞ではないか。しかも政府からの支給は1日1人玄米3合と減らされた。会津藩士はいよいよ窮地に追い込まれた」(萬日記 同年11月8日)。
 移住者たちは町や村の中心部から、さらなる僻地へと追いやられる始末である。

 

  移住先での悪戦苦闘


 五戸に藩庁を置いた斗南藩では、権大参事に山川浩、少参事に倉沢平治右衛門、山内知通、永岡久茂、広沢安任があたり、刑法、司法、学校、開産、会計、庶務などの掛(部署)を設けた。このなかで陸奥の地を知っているのは山川と広沢などごく少数である。彼らはこの地で農業授産を中心に砂鉄の精錬所、煉瓦工場の建設、大湊港の開港、海産物の輸出などの計画を目論んでいた。これらの計画を軌道に乗せるためには、少なくても10年ほどの歳月と政府による援助が不可欠だった。加えて藩士や家族たちにはこれから遭遇するであろう数々の苦難や試練にも耐える覚悟が求められた。

 山川は斗南藩士に藩政の理念をこう伝えた。「今般寛大のご盛典をもって家名を立てることができた。この上は旧来の藩籍にかかわる者は残らず扶助したいが、何分にも我々は小家となり、どのように分配しても不足である。さりとて生活ができない者は不憫至極である。とくとこの情実を察し、それぞれが家産を立て、農業、工業、商業いずれの業種であり自主の民となるべきである。これが斗南藩の基本であり、天皇のご意思でもある」と。

 当面の食料、住宅の確保、そして開拓に必要な農機具を揃えることが藩の急務となった。移住にあたって政府から受け取った金は移住によって大半を使い果たし、残金も病人の手当や下宿代に当てられ、余分な金などは皆無だった。そこで山川は資金援助の陳情書を再三にわたって政府に提出する。「朝廷にもご多費の折柄、恐縮至極とは存じるが、窮迫が眼前に迫り、仰天伏地し、号泣してただただ神に祈るほかない。なにとぞご臨察を賜りたい」。賊軍とはいえ、藩のトップによる血を吐くような直訴に政府も渋々これに応じた。

 ある程度の目途が立つまではとにかく耐えるしかない。藩士や家族たちも奮起した。藩では農業授産だけではなく、紙漉き、傘張り、提灯張り、小鳥網づくり、機織、屋根葺き、壁塗り、木地職、竹細工、筵織り、窯業などあらゆる仕事に取り組むことを求めた。だがこうした仕事は経験がある者でなければできるものではない。仕方なくその日の食べ物と僅かな金子を得るため、移住者たちはどんな仕事もいとわなかった。武士の面子をかなぐり捨て、ある者は百姓家で草取りを懇願したり、泥にまみれて田畑を手伝い、商家から品物を分けてもらって行商などもした。

 仕事にありつけない者は野山に分け入り、アサツキ、蕨、ゼンマイ、アザミ、ヨモギ、蕗、ウコノギ、アカザ、山牛蒡、山椒などを手当たり次第に採取したり、蕨や葛の根を掘って澱粉をとった。山菜はもちろんのこと、柔らかい野草までも手当たり次第に摘み取っては空腹を紛らわせたのである。こうした姿を見て地元の心ない人間はこうたとえた。「会津のゲダガ」。ゲダガとは下北地方では毛虫を指す。つまり毛虫のように葉っぱなど喰えるものはなんでも喰うのが会津衆、という意味である。一方、上北地方では「ほしなも喰えぬ斗南衆」と。

 ほしなとは味噌汁の具となる大根を干した菜のことであり、その干し菜さえも食べられないほど困窮している状態を指した。併せて松平家の始祖、保科家をもじったものである。さらに三戸地方では「会津のハド」と蔑称された。ハドとは鳩のことであり、馬の飼料として栽培した大豆を会津の人々が盛んに食べることからこう呼んだのである。三戸に移住してきた間瀬みつも手記にこう記している。「子供の喧嘩にも『会津の豆喰い』などと悪口を言っておりました。そのときの大豆の値段は10銭で7升5合、小豆は10銭で3升5合で、本当に安いことで、私共もよく食べました」。
 
 満足に食事にありつけない者たちも少なくなかった。後に上京し、苦学の末に陸軍大将となった柴五郎の「犬の死体」を食した逸話は有名である。五郎が書いた「野辺地日記抄」(中央公論)を要約するとこうだ。「田名部川の氷がゆるみはじめた頃、円通寺裏の川の氷上にいた犬を射殺した猟師がいたが、薄氷のために取りにいけず、諦めて立ち去った。父の命令で少年五郎はこの犬を持ち帰るが、その話を伝え聞いた、やはり食料に事欠いていた斗南藩士に分けてくれと泣きつかれ、肉の半分を持ち帰らせた。犬の肉は塩茹でにして食したものの、四、五日もすると臭いが鼻につき、喉を通らなくなるが、他に食べるものはない。我慢して20日ほど食い続けたら、兄嫁は頭髪が抜け落ち、薄禿げになった」。
  
 柴家に限らず、他の藩士家族も似たり寄ったりだった。なかには松の木の皮をはいで粉にしたり、あるいは農家の残飯を分けてもらい、どうにかこうにか糊口をしのぐという状況だったのである。

 政府による支給米があることはあった。1人1日3合。少ないもののこれだけあればその日をなんとか暮らせないこともない。だが彼らはその支給米をできるだけ切り詰めて現金化しなければならなかった。布団や衣類などの生活必需品を購入しなければ厳しい冬を生きていくことなど適わなかったからである。

 日々の満足な食べ物にありつけない者はやがて栄養失調に陥り、また粗悪な食べ物を常時口にしていた者は消化不良を起こして病の床に伏せる。医者に診てもらおうにも、薬を買おうにも金がない。床に伏せる者がかぶるのは藁の布団だった。雪国の寒さは体力をあっという間に奪う。明治4年6月から11月にかけて、病気に罹った移住者の数は田名部地域で660人。野辺地地域596人。五戸地域645人。三戸地域483人。合計2384人。全移住者の7人に1人は病臥にあった計算だ。

 死者も相当な数にのぼった。明治3年から4年にかけての各地域の寺院の過去帳には実に多くの藩士とその家族が死亡していることが記載されている。ちなみに三戸の玉吟寺(真宗大谷派)では、明治4年の死亡者12人のうち7人が移住藩士の一族だった。前述した石井家の萬日記にも「我が家にも安藤久米之進という会津藩士が訪れ、祖母の死に遭遇したが、埋葬の場所も金もないと訴える。なんという不幸な人々であろう」との記述もある。ついに明治4年5月、斗南藩は大蔵省あてに「死者埋葬料金支給」についての願いを出す。会津城下での戦いでは仲間の屍体が横たわっていても埋葬どころか死体に手を触れることも許されず、野犬、野鳥に啄ばまれるままだった。一縷の望みを抱いてやってきた新天地においても、埋葬する場所と葬式代に泣かされるとは、誰が想像できただろう。

 首脳陣たちの生活も困窮を極めた。藩の大参事である山川浩にしても給料はわずか3円、末端の職員が1円、見習いが75銭である。あまりの薄給から山川は豆腐屋に頼み込み、安価で栄養もある「おから」をすべて山川家で買う約束をとりつける。だがこれを聞きつけた同士たちから「皆が食べ物に泣いているというのに、安くて手に入りやすいおからを独占するとは何事か」と吊るし上げを食らい、おからの買占めを断念せざるを得なかったほどだ。また、幼君松平容大も粗食の日々に耐えていたのである。

 貧すれば鈍するのたとえどおり、やがて犯罪に走る者や、武士道からはずれた行いをする者も現れ始める。窃盗をはたらき、斗南士族の身分を剥奪された者がいた。武士の魂である刀を鉈(なた)がわりして薪を割る者がいた。売春婦、妾になった女たちは仲間たちから糾弾されたが「生活の糧に肉体は売っても、魂までは売りませぬ」と慟哭したという。糾弾した側もやりきれなかったに違いない。大の男でさえその日の糧を得るのが難しいのに、多くの子供や病気の家族を抱えた女が、生活費や治療費をいかにして稼げるというのか。こうした窮迫した生活に耐え切れず、藩に無断で斗南領を脱走する者もかなり出た。下北半島の佐井村の場合、明治3年から4年にかけて70世帯、270人余りの会津藩士家族が居住したが、間もなく半分の150余人が脱走している。

 士族を廃業する者たちも現れ始める。これは移住後間もなく見られたらしい。会津武士の誇りだけでは生きていけない。「三合扶持のホイト(乞食)よりも、商人になって金を稼いだほうが暮らせる」との決断からだ。地元の豪農、あるいは大きな商家に婿入りしたケースも見受けられる。また、藩士の娘を嫁にしたいとの申し出も多かった。悲惨な体験、苦労続きにも根をあげず、家族のために健気に働く姿は理想の嫁として映ったのだろう、そして教養もある。「嫁にするなら会津の娘」が流行言葉にもなるほどだった。