地元に溶け込もうと努力する


 衣食の面は個人の努力と責任に任されたが、住居に関しては藩がなんとかしなければならなかった。いつまでも藩士たち家族を下宿させておくわけにもいかない。明治3年10月、藩は田名部郊外の妙見平に一戸建て約30棟、二戸建て約80棟の住宅を完成させ、約200戸、800人ほどが移り住んだ。さらに大湊に近い松ヶ丘にも約30棟の住宅を建て、やがて三本木、五戸、三戸でも20戸から30戸ほどの長屋が建てられ藩士たちを入居させた。これらのにわか集落は地元の住民たちから会津部落とか会津町、会津屋敷と呼ばれた。こうした住宅建築には、斗南藩の窮状を察した弘前藩や南部藩の支援と援助が大きかった。弘前藩では藩知事が500両を始め、士族や士卒なども併せて1050両を贈ってくれたのである。うち士卒の500両は鋤、鍬の現物支給だった。南部藩でも地元の大工たちの手配や住宅着工の一部資金などを工面したという。

 三本木開拓にあたっては南部藩士で三本木開拓の父と呼ばれた新渡戸伝(にとべつとう)が、農具の援助、開拓の方法など全面的に協力してくれた。

 三戸町で間瀬みつは同じ会津の人々と協力し合いながら、また地元の人々の暖かい手に支えられて生活を送っていた。引っ越した当初の下宿先は手狭で布団なども借りられず、家族は嫌な思いと窮屈な暮らしを強いられた。しかし程なく会津藩士の武川武士の紹介で沖田面村の商人、石井与五平方へ移ることになる。与五平の家族はいずれも親切で、布団、お膳、椀、土瓶、茶碗なども嫌な顔ひとつせずに貸してくれたのである。

 与五平方でみつは商売の手伝いをする。「糸引車、枠というのを5つも貸してくれたので、それから皆々で糸引きをしました。白糸は大繰りで煮るのであります。それから板に巻いて大小のくりにして、三戸町、五戸町、八戸在、かるまへ宿(軽米)へ、市日ごとに売りに出るのであります。肩から脇の下へ紐で行李を提げ、大声で男女が「かなかな」と売り歩くのであります。かな売りは冬の内ばかりで夏はありません。他では仕事がなくて困っていたということですが、私共は良い宿のおかけで、冬の内は大変に景気がよくて仕合せに凌ぐことができました」。

 みつの家族に限らず、移住してきた人々は町の生活に慣れよう、地元の人々とも親しくなろうと努めた。これは藩からの達しでもあった。「2、3年に一度は冷害に襲われ、慣れた百姓でも難儀する移住地である。素人がおいそれと開拓などできるものではない。必ずや地元住民の世話になることだろうから、決して地元住民と揉めたり、非礼、無礼な振る舞いをしてはならない。農業授産の成功・不成功はひとえに地域住民との協調にあるのだ」と。ひたすら忍従が求められたのである。とはいうもの、小さなトラブルはあったようだ。言葉(方言)が原因によるケースだ。田子に移住し、寺子屋を開いて地元の子供たちに読み書きを教えた根橋伝吾(後に田子小学校校長、田子村長)が山で薪をとり、背負って山を下りてきたところ、すれちがった村人から「根橋様はクセモノでござりあんすな」と声をかけられた。これを聞いた根橋は「曲者とはなにごとぞ」と、血相をかえて怒ったという。曲者とは強い者、勇気のある者を賞賛するこの地域の方言なのだが、根橋にはこれが理解できなかったのである。誤解はすぐに解消、互いに酒を飲み交わして胸襟を開くまでになった。

 山川浩は藩士が外出する際、刀を差すことを禁止する旨を布達しているが、これは藩士と住民とのトラブルを防ぐための措置だといわれる。「武士の魂である刀を差すことができないとは何事か」と、当初はこの布達に異を唱える藩士も多々いた。大庭勇助も困惑したに違いない。というのも、勇助は「剣」で生計を立てていたからである。会津若松城下の南町鉄砲丁で一刀流溝口派の道場を構える師範として、居合い、棒、捕手、弓、鉄砲、柔術と、まさに武芸百般に通じ、多くの門弟を抱えていた。移住先の三戸で道場を開き一族を養おうと考えても不思議ではなかった。ところが刀を差して外出はならないとの布達である。しかも地元では栗谷川易太、松尾武八郎などが先祖伝来の道場を構えていて栄えていた。新参者が道場を開くには遠慮もあったのだろう。「今後、剣で生計を立てるのは難しい」と悩んだのではなかろうか。

 外出する際の帯刀禁止令への反対意見もやがて止み、ほどなく全員が従った。お家再興が最優先、大事の前の小事と割り切ったのだろう。だが藩士たちのこの判断は後に生きてくる。明治9年3月、政府は廃刀令を出すものの、それに従わない各地の武士たちが猛反発、取締りに苦労させられるのだが、いち早く廃刀令に近い布達を出した山川を始めとする藩首脳陣、布達に従った藩士たちの評価を高める結果となったのである。

 言葉や習慣などに違いはあるものの、礼儀正しく、清貧に甘んじても卑しさを表に出さない藩士やその家族を、地元の人々は好感を持って次第に受け入れていく。大庭勇助も武術の達人でありながらそれを鼻にかけることはなく、挨拶がすこぶる丁寧で、相手が頭を上げてみるとまだ下げたままだったという。移住後の生活は明らかではないが、一時、武術の腕前と度胸を買われ、役場で警護役を引き受けたこともあったようだ。背丈が低く、小男の部類だった勇助にはこんなエピソードが残されている。ある時、役場の公金を八戸に届ける最中、三戸町内のはずれで図体のでかい追剥(おいはぎ)に襲われたものの、勇助はとっさに柔術で投げ飛ばして撃退した。それを目撃していた町の者がいて町中の噂となった。当の勇助は「なに、相撲とりに柔を教えてくれと頼まれ、教えたまでのことです」と終始とぼけてみせたという。


  謎の白虎隊の墓碑


 明治3年はあっという間に過ぎた。みつ家族は貧しくとも三戸で平穏無事に明治4年の正月を迎えることができたと記している。

 「三戸近辺では正月元旦から賑やかに若い娘や子供が遊ぶ習わしがあり、8日までに遊び上げといって、男女共にいる家では、3人でも5人でも、銘々が手の掌に餅を上げて出しますと、鳥数羽があたりを飛び回り、掌の餅をさらうのが例であります。また15日は女の年取りといって賑やかで、元旦同様21日まで遊び、22日に遊び上げ、前の8日と同様、掌の餅を鳥にやり、家ごとに男たちは外に出て賑やかであります。このようにすると、年中、鳥が菜園穀物などにいたずらしないということを、土地の者が話しておりまして、珍しいことと眺めておりました」。

 三戸町にある浄土宗観福寺。応永27年(1420)3月7日開基の古刹である。雪が積もって訪れる人もない正月、1人の男が建てたばかりの墓の前で手を合わせていた。旧会津藩士の大竹秀蔵(推定34歳)である。墓には一年前に会津で没した大竹秀蔵の母親シヲの名と共に、会津飯盛山で自刃した白虎隊士17名の名が刻まれていた。少年たちの氏名は以下の通りだ。

 簗瀬竹治、鈴木源吉、伊藤俊彦、石川虎之助、野村駒四郎、有賀織之助、西川勝太郎、永瀬雄次、篠田義三郎、伊藤弟次郎、池上新太朗、簗瀬勝三郎、安藤三郎、井深茂太郎、飯沼貞治、間瀬源七郎、石田和助。

 飯盛山における白虎隊士たちの自刃については周知のとおり、慶応4年8月、黒煙に包まれた鶴賀城を望み見て落城したものと誤認、「もはやこれまで」と絶命した士中二番隊19名を指す。白虎隊員の屍は自刃後もしばらく風雨にさらされていたが、滝沢村の肝煎であった吉田伊惣次がこの惨状を目撃、妙国寺と飯盛山に埋葬した。だがこれが政府軍に露見、吉田は檻倉につながれたものの、吉田の自発的な行為と判ったため放免され、正式に飯盛山に埋葬することが許された。白虎隊の墓碑について、会津若松史第5巻では「明治7年に改葬されて以降、同16年、同23年、大正15年と次々と隊士の墓が拡張され、現在の形となった」とあるものの、まだ16、7歳の少年たちが藩と藩主に忠誠を誓って殉じた事実が公になったのは、自刃を試みたものの渡部佐平・ムメ夫婦と印出ハツに救出された飯沼貞吉の後年の証言によって、明治20年以降といわれている。明治14年、飯盛山上に一基の石碑が建てられたのが最初であり、同23年になって初めて19名1人1人の墓碑が建てられたとある。

 大竹秀蔵が建立した墓碑に戻ろう。彼が刻んだ白虎隊士の数には誤りがあった。林八十治、津田捨蔵、津川喜代美の3名が欠けているのだ。代わりに蘇生した飯沼貞吉の名が刻まれていた。また氏名にも安達藤三郎が安藤三郎に、簗瀬武治が竹治、伊藤悌次郎が弟次郎、篠田儀三郎が義三郎と間違って表記されていたのである。

 当時、この碑については移住した旧会津藩士の間でも、また地元の人間でもその存在を知る者、あるいは存在を口にする者はいなかった。

 大正12年(1923)、たまたま観福寺を訪れた旧会津藩士の子孫、矢村績(いさお)
がこの墓碑の存在を知り、80余歳になっていた大竹秀蔵と面会、その印象を「その人の現代に超絶し古武士の風あるを知り、以来この人と語るをもって得るところ少なからず」と賞賛している。そして次のような檄文を残している。「南に赤穂47士の忠臣義士あり、北に会津白虎隊の忠勇無比あり。倶に我国武士の亀鑑として世人の普く称揚するところなり。然るに赤穂義士の碑は高輪泉岳寺にありて香花絶えるときなく、独り白虎隊にあっては未だその碑のあることを聴かず。

 是れ戊辰の役、会津藩主松平肥後守朝敵の汚名を受け、幼君容大公斗南3万石に封ぜられ、藩士一同随従斗南に移りしも、幾ばくもなく廃藩置県となり藩士また離散、白虎隊の霊を弔う暇なかりしなり。然るに、藩士の三戸町に止まりし大竹秀蔵氏、これを遺憾とし、旧会津藩士に謀り、戊辰の役に重立ちたる戦死者の氏名並びに白虎隊殉死者の名前を刻し、三戸町浄土宗観福寺に碑を建立してその霊を弔う。実に美挙と云うべし。白虎隊の遺族並びに旧藩士の子弟たるの人、応分の喜捨をなし大竹氏の挙を授けられんことを」(大正12年10月。主唱者 矢村績)。

 それから長い年月が過ぎ、苔に隠れた白虎隊の碑を発見したのは昭和25年、当寺住職の高杉龍眼師によってであり、テレビドラマや映画で白虎隊が脚光を浴びるとともに、これが日本最古の白虎隊の墓碑として紹介され注目されるようになったのである。