墓碑に託された会津魂



 それにしても謎の多い墓碑であり、大竹秀蔵なる人物も謎である。
 亡き母親の霊を弔うための建立は息子としては当然だが、そこに白虎隊の名前を刻むというのはどういうことなのだろう。そもそも大竹秀蔵は墓碑に刻んだ白虎隊を政府軍と戦っての「戦死」ではなく「自刃」として把握していたのか。もし自刃として把握していたならば、その事実をどこでどう知ったのか。惨劇を自分で目撃したのだろうか、それとも誰かから伝え聞いたのだろうか。先の矢村績は大竹秀蔵が「旧会津藩士に謀り(原文のまま)」墓碑を建立したと檄文にしたためたが、秀蔵から墓碑建立の相談を受けたという人物名は不明のままだし、記録もまったく残されていない。

 前述したように白虎隊に限らず、会津藩の戦死者の埋葬は政府軍によってしばらくの間許可が出なかった(この説には、新政府による埋葬禁止令はなかったとの異論もある)。そしてもし勝手に埋葬すると厳しい沙汰が待っていた。斗南移住後においても病死などした家族は別として、会津の戦死者を弔ったり顕彰するような碑などはもってのほかだった。不穏な動きがないか、斗南には政府軍によって数多くの密偵が放たれていたのだ。そうした目をくぐり抜けての白虎隊の墓碑建立なのである。さまに命がけといっていいだろう。発覚すれば同士に迷惑がかけることは目にみえている。それなのに敢えて同士に相談して建立したのだろうか。

 大竹秀蔵が住んでいた町には白虎隊士の間瀬源七郎の姉みつ家族が住んでいた。近隣の五戸町にも蘇生した飯沼貞吉の家族が暮らしていた。だが、彼らは白虎隊の墓碑の存在を知っていた節はみられない。仮に、墓碑の存在を知っていながらも密偵の目を気にし、厳に口を閉ざしていたとしても、後年になってから告白してもよさそうなものだが、それすらもないのである。大竹秀蔵にしても、彼が亡くなるまで間違えた白虎隊士の氏名の訂正、それに欠落していた隊士名を追加した形跡は見られないのだ。大竹秀蔵単独による密かな建立としか思えないのである。さらには墓碑の建立にあたり、その費用をどこから捻出したのかという疑問だ。小さな墓碑とはいえ、当時としてはかなりの出費に違いない。食うや食わずの生活を送っていたのに、どこにそんな余裕があったのだろうか。

 そもそも大竹秀蔵とはどのような人物だったのか、簡単に紹介しよう。秀蔵の消息に関しては大庭茂氏と紀元氏の親子が丹念に追っていた。

 大竹秀蔵は父新十郎(嘉永年間に死亡)と母シヲ(斗南移住直前の明治3年正月13日に死亡)の間に生まれた。家は会津若松の本二ノ丁と三日町通りの北西の角にあった。母シヲは1700石の家老、諏訪伊助の娘である。大竹家と諏訪家は道を隔てて向かい合っていた。
大竹家の長兄である主計(かずえ)は450石取りの大組物頭(本陣の称で、大組物頭は番頭隊、新番頭隊の番頭や新番頭にあたる)であり軍事奉行を務めた上級武士だ。会津戦争の折には純義隊を率い遊撃隊隊頭を務めた。しかし9月5日、面川または御山で戦死したと伝えられ、その墓は面川の泰雲寺に建てられている。享年46歳。主計の弟である大竹梶之助は10石3人扶持。戦争当時、萱野右兵衛付属として戦ったが、8月12日、越後石間宝昌山で戦死。享年41歳。墓は不明。さらにその弟である大竹富記も10石3人扶持。役職は甲士勤で京都常詰御本隊御先備であった。戦時中は別楯組西郷勇左衛門付属。7月中、新発田で戦死。享年36歳。秀蔵は年齢からしてその弟、大竹家の四男と思われ、士分は不明である。秀蔵が三戸に移住したのは明治3年4月から10月の間と見られる。移住経路や月日については不明だが、叔父一家の甥として三戸入りをしている。

 移住後、同郷のよしみだろう、大竹秀蔵はよく大庭家を訪れ、お茶を飲んだり食事を共にしたという。まだ10歳前後だった大庭茂は秀蔵の印象をこう記している「よれよれになった袴をいつもはいていた。両肩が怒って見え、いかにも古武士の風といった感じで、彼が辞去したあと、姉がシラミがいると大騒ぎしたこともある」と。

 移住後、大竹秀蔵は飴の歩き売り、あるいはにわか占いをして糊口をしのいでいたようだ。飴を歩き売りしていた際の背負い箱が関係者の手で修復され残されていた。悪天候が続くと商売どころでない。そんなときはどのようにして食事や金銭をまかなったのだろうか。大庭紀元氏は「若庄の世話になったのではないでしょうか」と推測する。若庄とは大きな商家である。氏名は「小笠原庄三郎」、屋号を「若松屋」。若松屋の「若」と庄三郎の「庄」をとって通称「若松屋」と呼ばれていた。小笠原家は会津若松の出身であり、藩政時代から三戸で商売をしており、かなりの財産家としても知られていた。移住してきた会津の人々をなにくれとなく世話をし、秀蔵も移住直後からこの若庄で寝起きし、金銭的な援助も受けていたようである。だとすると、白虎隊の墓碑もこの若庄と関係がありそうだ。紀元氏も「白虎隊弔魂と母シヲを弔いたいと秀蔵に懇願されたのではないでしょうか。若庄も会津人としての誇りを持っていたし、事情を察して墓碑の費用などを用立ててやったと思います」。

 若庄といえども、墓碑の建立費用の用立てが新政府に露見したらただでは済まないことぐらいはわかっていたはずだ。白虎隊と共に母を弔おうとする大竹秀蔵に同情、共感して費用を提供したのだろう。そして死者に対してまで非情な扱いをしてきた、新政府へせめてもの反抗の意思を示したのではなかろうか。

 大竹秀蔵は生涯、独身だったが、南部町南古牧に住む宮久七の次男、末太郎を養子に迎え、さらにはこの末太郎が会津出身の荒木リヨ(先妻で早世。遺骨は会津に埋葬された)、さらには後妻のヤエを嫁にもらっている。この頃が秀蔵にとっては幸せな時期だったに違いない。だが、末太郎ならびにその妻たちに先立たれると再び孤独な生活が始まる。晩年は僅かな年金をもらっての淋しい生活を送っていたらしく、ある日、死期を悟ったのか「長々とお世話になりました」と言って、書物一冊と筮竹(ぜいちく)を大庭家に贈って去ったという。その書物は「運気発揚 万録寿宝 玉三世相」と表書きしてあり、巻末には大庭茂の兄一郎の筆跡で「大正14年(1925)4月3日、大竹氏より寄贈」と記され今なお大庭家で大切に保存されている。それから一ヶ月ほど後の5月11日に秀蔵は亡くなる。当時としては長寿の86歳だった。

 南部町大字小向字古町に隅観世音という小さな祠がある。その祠の前に新旧雑然と並んだ墓石の中に、大竹秀蔵が生前に建立した墓があった。末太郎夫婦を亡くしてから「自分が死んでも墓を建ててくれる人は誰もいないから、古町の観音様の前に自分の墓を建てておいた」というものである。一方、三戸町の観福寺には、やはり生前に納めた白木の位牌がある。そこには母シヲと養子の末太郎、先妻リヨの名前が記されていた。これについて大庭紀元氏は「私の祖母が生前に語ったところでは、大竹秀蔵は死後、白虎隊の墓碑の傍らに埋められたかったそうです。それは表向きの理由で、本音としては白虎隊の墓碑の側面に刻まれた母親、その傍らで眠りにつきたいと願っての発言だったのではないでしょうか。秀蔵はそれほど母親を愛していた、慈しんでいたと思います」と語る。

 大竹秀蔵の遺骨だが、生前に建立した墓にはなかった。紀元氏の執念ともいえる調査の結果、養子末太郎と後妻ヤエの墓がある宮家の墓地の並びに眠っていることが判明したのである。さらに、養子末太郎に子供は授からなかったのだが、前妻リヨ、あるいは後妻のヤエの子供だろうか(何かの事情で母方の元で育てられたのか)、大竹義休が末太郎の子として大竹家を継ぎ、祖先が現存していることも判ったのである。自分の身内がいることを知り、大竹秀蔵は墓の下でさぞ喜んでいるのではなかろうか。

 多くの謎を残したことで無名の藩士、大竹秀蔵の名と三戸町の白虎隊墓碑は広く知られることになった。大庭紀元氏のように会津出身の人々や地元の歴史研究家も謎に包まれた秀蔵の生涯の解明に努めている。また会津関係者ばかりでなく幕末に興味のある人々も絶えることなく観福寺を訪れ、白虎隊の墓碑に花を手向けている。大竹秀蔵の目的はここにあったのではないだろうか。「どんなに時代が変わろうが、月日が流れようが、決して自分たちや白虎隊、会津藩のことを忘れてくれるな」と。