ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756~1791)35歳

若くして世を去った天才作曲家

 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。最も有名なクラシック音楽の作曲家の一人であり、ハイドン、ベートーヴェンらとともに古典派とよばれる。作曲作品はのべ700曲以上といわれ、代表作には3大オペラ(「フィガロの結婚」「ドン・ジョバンニ」「魔笛」)、3大交響曲(第39番、40番、41番「ジュピター」)、「ハイドン・セット」の弦楽四重奏曲6曲、ニ長調「戴冠式」など17曲のピアノ協奏曲、弦楽セレナード「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」等々、不朽の傑作がある。

 彼は1756年オーストリアのザルツブルグで生まれた。わずか3歳の頃からその才能を発揮し、5歳の時にはすでに作曲に取り組んでいたと伝えられている。そして、音楽家であった父親に連れられてヨーロッパ中を演奏旅行し、一躍脚光を浴びる。やがて大司教宮廷音楽家となるが、81年にウイーンで独立。しかし、今でいうフリーでの音楽家の生活は大変困窮し、数多くの仕事を精力的にこなしたものの、収入が不安定で多額の借金を負うことになる。さらには幼い息子、父親にも先立たれ、これが原因で体調と神経を病み、薬を服用していたという。「魔笛」作曲中の91年7月、灰色の服をまとった不気味な男から、依頼主の名を知らされないまま「レクイエム」作曲の注文をうける。(その後、依頼主は音楽愛好家のワルゼック・シュトゥパッハ伯爵であることが判明)。レクイエムに取り組んでいる最中の11月20日から病床に伏し、病とたたかいながら「レクイエム」を半ばまで作曲したところで力尽き、12月5日、35歳で世を去った。

病死か、毒殺か、謎が多く残る死因

 彼の死因は「リューマチ熱」(リューマチ性炎症熱)であったと考えられている。これは幼少期の度重なる旅行が原因だったらしい。当時は道路の舗装が不完全であったため、馬車の振動が健康を脅かしたのだという。実際にモーツァルトは旅行先で病に伏すことが少なくなかった事が手紙や記録に残されている。そしてモーツァルトはこのとき罹患したリューマチに終生悩まされる事となり、これを持病としたために彼の体格は小柄になり、さらには直接の死因にまでなってしまったという説がある。このほかにも医者が死の直前に行った瀉血(しゃけつ・人体の血液を外部に排出させる事で症状の改善を求める治療法の一つ)が症状を悪化させた、あるいは人によっては尿毒症、ブライト病、水銀中毒、結核、粟粒疹熱、甲状腺腫、脳の炎症、水腫、悪性チフス熱などを死因とする説もある。しかしいずれも確証がない。

 病死以外に「毒殺説」もある。モーツァルトは病に伏す前に、妻・コンスタンツェに「自分は毒を盛られた」と語ったことがあるという。「私を嫉妬する敵がポークカツレツに毒を入れ、その毒が体中を回り、体が膨れ、体全体が痛み苦しい」とまでもらしていたと言う。また、彼の死後、ウィーンの新聞は「毒殺されたのではないか」と報じ、「サリエリ(モーツァルトのライバル作曲家)がモーツァルトを毒殺した」という噂が流行した。これによりサリエリは死ぬまでこの噂に悩まされることとなる。この噂をアイデアに制作されたのが、1984年に封切られた映画「アマデウス」である。これはウィーン時代のモーツァルトと、ライバル音楽家サリエリの毒殺説をテーマにした映画で、全世界で大ヒットし、アカデミー賞も受賞している。この他にもフリーメーソンによる毒殺説もある。モーツァルトがフリーメーソンのメンバーであり、メンバーであることを秘密にしなければならないのにもかかわらず、死の直前にオペラ「魔笛」で、そのことが分かってしまうような場面を設けたために殺されたというのだ。いずれにしろ、検死解剖が行われなかったため直接の死因は不明のままである。

遺体は一体どこに眠っているのか

 病気説、毒殺説以外にも、埋葬と葬儀に関しても謎が残されている。葬儀の日取りは「12月6日説」と「12月7日説」の2つがある。遺体はウィーン郊外のサンクト・マルクス墓地の共同墓穴に埋葬された。誰も霊柩車に同行することを許されなかったため、実際に埋葬された位置は不明のままだ。生前のモーツァルトを援助してくれた裕福な友人や、後援者が多数いたにもかかわらず、なぜ貧困者用共同墓地に埋葬されたのか。しかも墓石もなく、無名で共同の墓穴に葬られたのはどうしてなのか。これだけの有名人がまともな葬儀も行われずどこに葬られたかもわからないというのはやはり異常である。

 彼の没後100年にあたる1891年、中央墓地(ベートーヴェン、シューベルト、ブラームスら著名音楽家が多数眠る墓地)に当時サンクト・マルクス墓地にあった「モーツァルトの墓とされるもの」が記念碑として移動した際、またもや位置が分からなくなってしまった。現在サンクト・マルクス墓地にある「モーツァルトの墓とされるもの」は、移転後、墓地の看守が打ち捨てられた他人の墓の一部などを拾い集めて適当な場所に適当に作ったものであるといわれている。数々の名曲とともに多くの謎も残し、彼はどこに眠っているのだろうか。

参考資料・出典
マイクロソフトエンカルタ 百科事典2000
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




  小林ハル(1900~2005)105歳


強靭な肉体と精神力は、凄絶な修行と放浪旅が培った

 最後の瞽女として過酷な半生を余儀なくされたものの、「それもこれも神様、仏様のお導き」と、謙虚に受け止め、何事にも感謝も忘れなかった小林ハル。その姿勢が晩年に幸福をもたらすことになる。
  
 瞽女とは、生活のために三味線を持ち、民家の玄関や軒先で唄をうたい、その謝礼にわずかばかりの米、あるいは金銭をもらって旅をする、目の不自由な女性たちをいう。新潟県長岡市のみならず、最後の瞽女として知られた小林ハル。身寄りは誰もなく、70代になって養護盲老人ホームに入所。ここを終の棲家とし、いつお迎えが来てもいいよう、心穏やかに晩年を迎えるはずだった。ところが78歳のとき文化庁より「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」に選択され、79歳で黄綬褒章受賞。102歳で第36回吉川英治文化賞を受賞。そして多くの人びとに見取られて105歳の長寿をまっとうした。

 明治・大正・昭和前期の障害者差別が存在した時代に、社会的最下層の「流浪の女旅芸人」として生きざるを得なかった小林ハル。だが、そうした苦難の人生が彼女を105歳まで生き長らえさせたともいえるのである。

苛烈な修行と門付けの旅

 ハルが生まれたのは明治33(1900)年、新潟県の三条市。生後3カ月で白内障を患って失明し、2歳にして父親を亡くす。正式に瞽女として入門したのは彼女が5歳のときであり、実際に唄と三味線の稽古をつけてもらったのは7歳からだ。その稽古たるや凄絶なものだった。幼子の柔らかい指に三味線の糸は硬く、弾き始めて一週間もすると皮がむけて血が吹き出る。あまりの痛さに号泣した。だがここで辞めたら親方に支払った多額の金を失うばかりか、罰金ともいうべき「縁切り金」まで新たに支払わなければならない。そんな余裕などなかった。ハルは堅い三味線たこができるまで歯を食いしばった。

 真冬の寒稽古もハルを泣かせた。まだ暗く寒い朝5時から7時まで。夜は7時から11時までの一日2回、信濃川の土手に上り、冷たい風に吹かれる中で思い切り声を出して唄うのである。服装は下着1枚に木綿の腰巻、そのうえにネルの単(ひとえ)物。しかも素足にわらじ履き。こちらの稽古も一週間もすると足にしもやけができて歩行困難となった。さらに強制的発声で喉を痛め、咳をすると出血もした。こうした稽古が14年間続くのだが、これによって強靭な肉体と精神力が養われたのは言うまでも無い。

 旅では師匠や姉弟子の厳しい仕置きにも耐えなければならなかった。瞽女の世界では師匠と姉弟子は絶対である。口ごたえや批判などは許されない。それを犯せば厳しい折檻が待っている。10歳のときには師匠から山に置き去りにされ、生死の境をさまよった。20歳になる前には手引き役の女の恨みをかい、杖で局部を傷つけられて子供が産めない体となった。こうした逆境にあってハルは悟りめいたものを会得する。「すべては神様、仏様のお導きなのだ。すべてを受け入れ、すべてを許すことで、自分も救われる」と。

養護老人ホームで幸せな第二の人生

 旅の仕事では人様から頂いた食事を食べてきた。食べなければ失礼になる。だからホームでの食事に好き嫌いなどはなかった。「三味線を弾かなくても三度三度温かくて美味しい食事がいただける。こんな有難いことはない」と、常に感謝を忘れなかった。

 80歳を過ぎると物忘れや痴呆の症状が出たりするものだが、ハルにはそれがほとんどなく、いたって健康そのもの。ハルが覚えている瞽女唄全曲録音という作業が可能になったのは、驚異的な記憶力に支えられてのものである。「目が見えないから唄は頭と喉に、三味線は指に刻むしかなかった。だからそう簡単には忘れるもんじゃない」。

 96歳、初めてのCD「最後の瞽女 小林ハル 96歳の絶唱」が制作される。力強く三味線の弦を弾きつつ、一字一句の間違いもなくドラマチックに物語を演じた。所要時間にして2時間。とても96歳とは思えない声の張りと艶だった。100歳になる前後からハルは車椅子に頼ることが多くなったことから、ベッドのある一人部屋に移る。他の人に気兼ねすることなく一日を過ごすことができることをとても喜んだ。

 車椅子を使うのは移動のときだけであり、食事などは職員の手を借りることなく自力でゆっくり楽しんだ。体調もとくに異常は見られない。ただ、聴力の衰えはどうしようもなく、かなり高性能の補聴器を使わないと日常の会話は難しくなっていた。平成17年(2005)年1月24日、105歳の誕生日を関係者や瞽女仲間たちから祝福される。老衰のために亡くなったのはそれから3ヶ月後の4月27日である。

PROFILE
1900年新潟県生まれ。最後の長岡瞽女。生後三ヶ月で白内障を患い失明。5歳に瞽女として入門。半生を過酷な荒修行と旅放浪で過ごす。晩年は養護盲老人ホームで瞽女唄全曲録音の作業に携わる。無形文化財、黄綬褒章、第36回吉川英治文化賞を受賞。

長寿のヒケツ
食事
修行のときから出されたものは残さずに必ず食べなければならなかった。そのため好き嫌いはまったくなかった。

健康法
これも幼い頃からの寒稽古、発声練習で基礎体力がつき、長年にわたる徒歩の旅で足腰は強靭になっていた。

趣味
芸に対する精進。瞽女を廃業してからも後進の指導に熱心だった。同時に自らの三味線、唄に対しても磨きをかけた。