救貧院の設立


 新年を迎え、藩首脳部はこれまでの総括と今後の見通しを話し合った。新政府に対して農業授産の旗揚げをしたものの、何一つ軌道に乗らない。新政府に対する借金は増えるばかりで、屈辱感も増すばかりだった。そこで心機一転、藩庁を五戸から海運にも夢を託せる田名部に移すことにした。田名部に隣接する大湊港は天然の良港であり海産物にも恵まれている。フグの干物やサメのヒレ、イリコ(ナマコを煮干にしたもの)などを中国などに輸出すれば大いに稼げるし、むつ、下北区域の山々からは見事なヒバが伐りだせる。財政再建の起爆剤になると判断したのである。こうして明治4年2月15日、五戸を出立、18日に田名部の曹洞宗吉祥山円通寺に藩庁を設けて巻き返しを図った。

 斗南ケ丘では農業経営全体を取り仕切る出張所や板倉物置を設置し、桑苗、栗、稗、粟、蕎麦、小麦、馬鈴薯、甘藷、大豆、小豆、煙草、麻などを植えた。また、養蚕を行って生糸、口糸、手撚りなどの糸も作った。しかしいずれも藩財政に寄与するまでには至らず、藩士たち家族の生活を潤すまでにはならなかったのである。多くの移住者たちは年が明けてもなお寺院や百姓家、商家に身を寄せ、扶助米金に頼る生活を余儀なくされていた。そこで藩は同年6月、藩士と家族の救済策として25条の規則から成る「救貧所規則」を制定し、「救貧所」を設置する。これは無職の者、生活能力の無い者などを「救貧所」に入所させ、手に職や技術を身に付けさせて自立と自活が可能になるようにとの目的で作られたものである。今でいう職業訓練所に似ている。

 救貧所は田名部の郷社裏、五戸の中ノ沢、三戸の熊野林などに設けられた。田名部の救貧所では漆器細工、製紙、機織、陶器、下駄の鼻緒、畳作りなどの指導が行われた。指導には会津から藩士たちと共にやってきた職人や領内の平民があたった。この他にも煉瓦場を設けて瓦、瓶、すり鉢を作ったり、鉄工場を設置して鍋や釜、鉄瓶、鍬、鋤、鎌なども製造したとある。

 三戸の救貧所の場合、建設費400両は地元の有志による寄付だった。多いもので36両、少ないもので1両。当時は相当な不景気で金の価値が下落していたにもかかわらず、これだけの建設資金を集めたのである。このまま会津藩士家族たちを下宿させておくことはできないし、仕事を見つけてもらわなければ共倒れになってしまう、そんな危機感もあったのかもしれない。この救貧所は4棟、30戸ばかりの建物で入所は無料。明治40年頃まであったというが、次第に空き家となって製糸工場などに転用されたらしい。

 間瀬みつの手記である。「五戸の中ノ沢という所に、救貧所という仕事場を設け、生活に困る人々や仕事を希望する者に機織、糸引き、その他色々な仕事をさせることになりました。親戚の赤植平治が役場頭取の関係などもあって、私の妹のぶ、つやの二人がつみ真綿の仕事を覚えている(三戸の与五平方で覚えたもの)ことを知って、そこへ出稼ぎに行くようにと勧めてくれましたので、二人にその仕事をさせることにしました。話しによると中ノ沢の長屋を貸してくださり、支給米を差し出しておけば、炊事場で毎日三度の食事を渡してくれるとのことでありました。それは白米飯または粥などであり、汁菜は自分の手でこしらえてそれを食べているとのことでありました」。

 この救貧所での技術習得により、仕事先に恵まれたケースもある。明治5年に操業を開始した群馬県の富岡製糸工場に、旧斗南藩士族婦女子15名ほどが派遣されたのである。


  廃藩置県に伴う藩士たちの流出


 再起をかけて田名部に藩庁を移したものの、成果は芳しくなかった。気候条件も悪く、老幼婦女子を抱えての漁師仕事、原野開墾である。相変わらず新政府に救助米と生活資金を受けるものの、それすらも充分ではなかった。魚介類を拾って食料に充てたり、米と粟を取り換えて雑穀を混ぜて食したりしたせいか、消化不良、栄養不足などから病死する者が相次いだ。思うようにはかどらない各種政策に、移住者たちも我慢の限界に達した。「こんな悲惨な暮らしをいつまで送れというのだ。この責任は藩の大参事、山川(浩)にある。山川を斬るべきだ」という声もあがるほどだった。

 そうした矢先、またしても衝撃的な出来事が藩士家族たちにもたらされる。廃藩置県である。同年7月、斗南県と改め、9月には5県を合併して弘前県となり、11月には6県が併合して青森県となったのだ。新政府としては近代的国家樹立のためには従来の藩体制は何かと支障をきたす。藩主と藩士の主従関係を絶ち、天皇を頂点とした郡県制度の設置が急務であると判断したのだ。そのため各藩の藩主を東京に呼び寄せ、東京府華族にまつりあげて主従関係を断ち切る策を考える。斗南藩の幼き藩主である松平容大も東京に呼び寄せられ、これまでの石高の10分の1に相当する禄高を与えられることになった。藩の再起と興隆を夢見、筆舌に尽くしがたい労苦に耐えてきた人びとは、東京に去る幼君を涙して見送った。そして今後の身の振り方を考えなければならなくなった。

 廃藩置県を冷静に見据えていたのは広沢安任だった。斗南藩が県となったところで何も変わらないことを知り尽くしていた。彼の構想としては弘前、黒石、七戸、八戸、斗南の5県を合併させての大きな県を作ることである。これにより、農業、漁業、商業、林業、海運業など、ダイナミックに展開することが期待できると踏んだのだ。八戸藩大参事の太田広域は「弘前、黒石は津軽であり、南部とは犬猿の仲だ。果たしてうまくやっていけるのか」と不安を抱いたが、「南部の本体ともいうべき盛岡は組み込まれていない」と、説得に努めた。また、弘前県大参事に任命された旧熊本藩士・野田豁通(ひろみち)も広沢の構想に理解を示し、新政府との交渉に奔走した。広沢は旧知の大久保利通らの元勲に、野田は新政府の主だった首脳に訴える。新政府としてはお荷物ともいえる斗南藩にこれ以上の援助米や資金提供は大きな負担だったため、広沢らの構想は渡りに舟とばかりに、他の府県統合に先立ち、異例ともいえる早さで青森県を誕生させることになる。

 同年12月、青森にあった旧弘前藩の御仮屋(現在の青森県庁所在地)で青森県庁の開庁式が行われる。県庁の上級官員の多くは政府の要人などが占めたものの、野田の計らいにより、斗南藩関係者からは梶原平馬が庶務課長に、山川浩が田名部支庁長、永岡久茂が田名部支庁大属のほか、小出鉄之助、野口九郎太夫、水島純、沖津醇、沢三郎、箕輪醇、小川渉、青木往晴、大庭恭平、脇坂照正、沢全秀、藤田重明ら20人ほどが採用された。まもなく野田豁通は青森県権参事となり、太田広域は小参事心得から三戸支庁詰めとなる。ともあれ、「斗南の窮士を救うため」新生青森県に賭ける広沢の思いは実現したのである。

 だが、広沢の想いとは裏腹に、廃藩置県後、斗南の地を後に出稼ぎや移転する者が相次いだ。会津藩、松平家の再興が叶わぬ夢と終わったのだから、これ以上不毛の地に留まる理由もなかったからだ。明治4年9月、野田豁通が大蔵省にあてた報告書によると「約1万4000人のうち、3300人ほどは出稼ぎ、あるいは離散の由にて、老年ならびに疾病の者約6000人、幼年の者約1600人、男子壮健の者約2300人」とあり、明治5年になると「現今管下にある者総計約3300戸、1万2500人」と、歯が抜けるように故郷である会津や東京など全国に散って行くのである。

 それからほどなく斗南藩士救済策の最終案ともいうべき、元斗南県貫属士族卒等処分方が布達される。その内容は明治6年3月限りで手当米は廃止する。斗南ケ丘、松ケ丘の開拓は中止し、家業は農工商各自自由とする。管内で自立を希望する者には米5俵、金5円、一戸につき資本として5円を支給する。開拓場は三本木1カ所にする。他管下への送籍を望む者に対し、1人につき米2俵、金2円、資本金として一戸につき10円が支給されるなどである。このため転出者が相次ぐ。ちなみに明治7年の会津への帰還者は全斗南移住者約1万7000人のうち約1万人という記述(元斗南藩人青森県より若松県へ移住その他戸数人口取調見込書「太政典類典」)があり、半数以上が故郷会津に戻ったことになる。
  
 さらに明治8年、開拓事業は日の目を見ることなく打ち切りとなり、流出者は把握できないまでになる。斗南の地に残った人々といえば、病人を抱えたりしての経済的理由から移動が困難となった、あるいは生活の目途がようやく立ち始めた人びとだ。そうした人びとは地元に根ざそうと農耕を離れ、教員、役場の吏員、商人など各分野で働くことになる。明治14年の「旧斗南藩人名録」によると、当時、青森県に残留していた会津人は659世帯、約4000人ほどが居住していたとある。


  自治体の公務員や教育者への道が開かれる


 途方に暮れるしかなかった旧斗南藩藩士とその家族だが、廃藩置県に伴う行政機構の刷新により、藩士たちは思わぬ就業の機会に恵まれることになる。

 明治4年4月、それまでの町村役人を廃止して戸長(民選)・副戸長と改称し、従来の町村役人の事務を行わせるという太政官布告が出される。その後の明治11年には郡区町村編制法が制定され、旧来の郡を行政単位として認め、郡役所と郡長(官選)が置かれる。さらには同21年、市制・町村制度施行に伴い市町村長を置くのだが、その戸長や郡長ならびに市町村長に、時代は前後するが以下のような斗南藩士が選ばれている。

 相田覚左衛門(百石村戸長、初代下田村長)、石川巳濃次郎(2代三本木町長)、井関鎮衛(野沢村長)、大庭恒次郎(三戸町長)、小熊識三郎(三戸郡第20組戸長)、助役)、北村要(三沢村助役)、鈴木武登馬(三沢村村長)、鈴木良的(柏村助役)、津田永佐久(初代川内村村長)、林静(三沢村村長)、原田鉄治(三本木町長)、藤田重明(初代上北郡長)、沢全秀(第六大区区長)、柴太一郎(下北郡長)、林武蔵(下北郡長・野辺地町長)、大庭恭平(青森県官・函館県管)、石黒熊三郎(上北郡長・野辺地町長)、神田重雄(八戸市長)、神林茂(十和田市長)、菊池渙治(むつ市長)、河村碌(三本木町長)、太田直蔵(大湊町長)、大竹淳(大畑町長)、中島徹夫(大間町長)、林輿子(川内村3代村長)、山内啓助(川内町長)、田口主悦(横浜村長)、井山保太郎(天間林村長)、鈴木武八(天間林村長)、木村重功(佐井村長)、高畑熊三郎(大間村長)、藤森啓助(風間浦村長)、小島留彦(佐井村長)、林健(市川村長)、二瓶勝介(東通村長)、武田寅之助(風間浦村長)、根橋伝吾(田子村長)、北村友哉(三沢町助役)、小沼直忠(西田沢村長)、三浦梧楼(五戸村助役)。

 また文部省の設置(明治4年7月)により、旧藩の地方教育はすべて政府の指揮監督下に入り、近代的な国民教育制度の確立を目指した「学制」(明治5年8月)を発布する。これはフランスの形式、アメリカの内容を参考としたもので、義務制、教育と宗教の分離、地方公共団体による経営、小学校が教育の基本というものである。全国を8大学区(翌7年には7大学区に改正)に分けて区ごとに1大学を設置し、1大学区を32中学区に分けて区ごとに1中学を設置、さらに1中学区を210の小学区とし、区ごとに1小学校を設立することにした。大学区には督学局を設け、督学を置いて区内の学事監督の任に当たらせ、中学区・小学区には学区取締りを任用して統括指導に当たらせた。

 青森県は第8大学区(翌年第7大学区と改める)に属し、三戸郡は現在の岩手県二戸市とともに第17中学区に属した。三戸小学校が開設されたのは明治6年7月31日である。学区取締りには地元の名家であった松尾紋左衛門が任命され、北村礼次郎は同心得、渡部虎次郎、高木豊次郎、米田謙斎が小助教試補として採用された。「三戸郷土史」によると、開設当初の生徒数は80名。校舎は代官所建物を使用した。広い玄関には武者溜りがあり、床の間と違棚付きの大広間が並んであった。その大広間の畳をはがして平机を並べ、生徒たちは座布団を敷いて正座、訓導(当時の教師の名称)は黒板を使用して教えたとある。同年12月には生徒数は250人に増えている。

 教員として採用された渡部虎次郎は斗南藩士の子弟であり、会津藩校「日新館」の出身である。彼はやがて三戸小学校の第3代目の校長となり、一連の教育施策を推し進め、三戸地区における初等教育の基盤を確立するのだが、渡部に限らず、学制に伴う公立小学校の設立によって、多数の斗南藩士ならびにその子弟たちが教育の第一線で活躍することになるのだ。

 下北地方でも明治6年に4校の小学校が設立されたが、その初代校長がいずれも斗南藩士だった。飯田重義(大畑小学校)、山内平八(大間小学校)、井沢信(川内小学校)、沖津醇(田名部小学校)の面々である。また県下の名門校として知られることになる青森小学校(現在の長島小学校)でも、設立当初(明治6年7月)の教員8名のうち、6名が斗南藩士であり、青森、弘前地方でも多数の斗南藩出身の校長、教員の名が見受けられる。時代は前後するが、三戸郡や七戸、十和田周辺を見渡しても渡部のほか、田口主税(七戸小学校)、橋本博愛(七戸小学校)、神林茂(藤坂小学校)、田口常磐(下切田小学校)、田口勝造(下切田小学校)、星松太郎(榎林小学校)、鈴木是也(伝法寺小学校)、狩嘉津治(三戸小学校)、大庭恒次郎(三戸小学校)、大庭茂(三戸小学校)、井口信男(田子小学校、三戸小学校)、内藤信男(五戸小学校女子校)、林輿子(切谷内小学校・上市川小学校)、林健(多賀小学校・剣吉小学校・五戸小学校)、中市寛蔵(五戸小学校)、簗瀬栄(五戸小学校)、林健(五戸小学校)、根橋伝吾(田子小学校)、井関鎮衛(西越小学校・新郷村)、太田康衛(八戸小学校)、田口豊洲(八戸高等学校)、渡部英雄(長者小学校)、片峰勝豊(是川小学校)、渡部為治(大舌内小学校)など、斗南藩士ならびにその子弟が校長あるいは教員として採用されたのである。