日新館の教育とは


 地方自治や教育の現場に多数の斗南藩士ならびにその子弟が採用された理由、それは会津藩独特の幼年教育と旧藩校「日新館」での教育・実務レベルの高さ、さらには移住後の教育実績などにあった。

 会津松平家の始祖である保科正之は会津を領有して以来、積極的に教育を推し進めた。   教育によって会津武士たる人間を作り、ひいては藩、幕府に尽くす人材を輩出するのが目的である。寛文4年(1664)に「稽古堂」を開設以降、「郭内講所」「町講所」が設けられ、さらに「北・南学館」、「東・西講所」、そして「北・南素読所」「日新館」へと規模と内容を拡大充実させていく。面積8000坪にも及ぶ日新館は文化元年(1804)に開設された。敷地内には孔子を祀った大聖殿を中心として学寮、武学寮、武講、天文台、水練・水馬池(プール)、銃場、文庫(図書館)が立ち並び、当時としては内容・規模ともに奥羽地方最大の教育施設であり、全国的に見ても5指に数えられる藩学校であったといわれる。開設当初は身分の高い藩士の子弟のみを入学させ、このうち就学義務不履行の者に対しては罰則規定まで設け、教育を怠り、規定の学科を修めない場合には小普請料と称して禄に税をかけるほどの熱心さだった。

 日新館での教育はやがて花色紐組以上(会津藩独特の身分制度であり、花色紐組以上とは知行取り、いわゆる士分を指す)の子弟を対象とし、10歳になるとすべて入学し、素読所(小学)で学ぶことが義務付けられる。等級と階層、そして習得すべき教科もきっちりと分けられていた。花色紐組以上は第4等、300石未満の長男ならびに300石以上の次男以下までは第3等、300石以上500石未満の長男が第2等、500石以上の長男が第1等である。花色紐組以上の者はすべて第4等の教科を終了しなければならず、12歳で終了した場合は賞が与えられる他、童子訓を除く十一経の素読がすむと試験なしで第3等に進級することができた。また、第3等の長男も必ず第3等の教科を終了しなければならない規則が設けられていた。家格地位が高いほど、低い身分の者よりも余計に勉強し、また指導者としての資質を研鑽しなければならないシステムだったのである。

 大学ともいうべき講釈所への進学は必ずしも上級武士だけとは限らなかった。下級の者でも才能、力量次第で進学できる仕組みとなっていたのである。さらに優秀な者は藩命により江戸のエリート養成学校ともいうべき昌平校へ遊学できる機会も設けるほどだった。その恩恵にあずかった一人が広沢安任である。生家は貧困極まりない下級武士の家柄。早世した父の代わりに母を助けて働きつつ日新館で勉学に励み、昌平校に学んだのである。下級の士分であっても文武に秀でれば立身出世も不可能ではない。人材の活性化という面においても、日新館の果たした役割は大きいといえよう。

  「什」という組織と「宅稽古場」の存在



 教育の三本柱として知育、徳育、体育があげられるが、日新館ではそれらすべてに対応できる内容となっていた。また、日新館以外でもそれら教育をカバーする仕組みがあった。当時、武家における幼少期の教育といえば、家庭と寺子屋である。会津藩でも家庭内にあっては幼少の頃から父兄が躾と基本的な読み書きを教えていたし、6歳からは寺子屋に通わせて「孝経」の素読ができるまでになっていた。

 このほかに什(じゅう)があげられる。これは会津藩における藩士の子弟を教育する組織だ。町内の区域を「辺」という単位に分け、辺を細分して「什」という藩士の子弟のグループに分けたものである。6歳で仲間入りをしなければならず、什では「什長」というリーダーが選ばれる。什長は毎日、什の構成員の家の座敷を輪番で借りて、什の構成員を集めて「什の掟」を訓示した。有名な「ならぬことはならぬものです」というものである。
一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ
二、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
三、虚言をいふ事はなりませぬ
四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
五、弱い者をいぢめてはなりませぬ
六、戸外で物を食べてはなりませぬ
七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ

 子供たちの遊びにもこの什は反映され、「会津武士の子はかくあるべきである」という精神が刻まれていく。武士というものは庶民の上に立つ指導者であり、責任を負わなければならず、その言動はおのずと真剣にならざるを得ない。最悪の場合には死ぬ覚悟も辞さないというものだ。そのため幼い頃から家庭内で切腹の作法なども教え込まれた。日新館に入学すると日常生活の規範を示した「幼年者心得之廉書」、徳育の教科書ともいうべき「日新館童子訓」を徹底的に叩き込まれたのである。柴五郎も「童子訓こそは余の生涯に重大なる影響を及ぼせる書というべし」と「会津士道訓」の序文に書いている。

 さらには「宅稽古場」の存在である。これは独礼(藩主との謁見が可能)以下襟制(足軽など身分の低い者)に至るまでの子弟が稽古したところである。私立ではあったが、すべて学校奉行の差配によるものであり、その作法は日新館の武学寮と異なるところはなかった。異なる点は月謝であり、これによって師範への謝礼や稽古場の修理、道具の新調などの費用に充てていたのである。その月謝だがおよそ一ヶ月銭15文ほどであり、締方勤めの者が取りまとめにあたっていた。

 門下生たちは稽古ばかりでなく、リーダーを決めて日常生活の世話一切を自治的に行っていたようである。屋根や壁の修理、稽古場で使用する薪や藁などの収拾を手分けして行った。そして年長者や学問に秀でた者は、年下の者や学力が劣る者たちに勉強までも教えていたのである。また文武に優れた下級士分の子弟は師範のはからいにより、日新館への出入りを許された。このように、会津独特の卓越した教育制度と徹底した実践教育は、子弟の薫陶に偉大な功績をあげたのである。

 会津での戦争に敗れ、新政府から謹慎を申し渡された最中にあっても、教育に傾ける情熱は変わることがなかった。東京では5か所に分散収容された会津藩士たちは、山川浩を総督と仰ぎ、飯田町火消屋敷跡に藩事務所を設けて新政府との折衝に忙殺されていたのだが、その折の様子をまだ幼い柴五郎は「ある明治人の記録」にこう記している。「謹慎所には年頃の遊び相手はなく、余一人幼くして年長者のなかに混じり、井沢清次郎先生主宰の仮学校に列席、素読を授かり、なお補習として佐藤美玉先生に論語を授かる。藩事務所においては旧藩の青年有望の士を集めて指導訓育せり。このうちには茂四郎兄、木村丑徳もあり、久々に講座再興せられ、武士の子弟としての自覚次第によみがえりを覚えたり」と、山川浩自らも教育にあたったといわれている。さらに斗南移住が開始される数ヶ月前の明治2年11月には芝増上寺の旧会津藩宿坊を仮校舎として学校を開設し、校長に竹村幸之進(俊秀)を任命して子弟教育にあたらせていたという説もある。驚くべきというよりも、凄まじいばかりの教育熱心さなのである。


  移住先での日新館教育と、会津藩士たちによる寺子屋、私塾設立

 山川は斗南への移住が決定するとすぐさま、旧藩時代の漢籍や和書等を田名部に運ばせると共に、新刊の洋書を購入させている。藩再興には新しい知識が何よりも不可欠であるとの判断からである。そして「文武の諸科を総監し、人材を養い国器を成さしめる事を掌る」ための司教局を設け、「日新館」の再開に着手する。

 明治3年8月、田名部迎町の大黒屋立花文左衛門方を借用して講堂に充てた。入学に際しては斗南藩士の子弟のみならず、地域住民との融和を図る目的で一般庶民に対しても門戸を開いたのだが、藩士の子弟以外に入学したという記録は残されていない。

 田名部の本校に通学が可能な生徒は一部に限られた。というのも斗南藩領は広くはあったものの、下北地方、三戸地方などの間に七戸、八戸が点在し、とても全子弟が通える状態ではなかったのである。全寮制にして勉強させるという方法もあったが、藩の財政がそれを許さなかった。そこで領内の各地に分校を設置して多くの子弟に入学の機会を与えた。漢学校は田名部、五戸、三戸であり、それぞれの学校には分局を設けた。田名部の場合、野辺地、大畑、川内、斗南ケ丘。五戸は市川、中市、三本木、七崎、八幡。三戸は二戸などである。だが、田名部を除いて、五戸、三戸に日新館の分校が設置され、教育が行われたという記録は残されていなかった。構想だけで実現は果たせなかったようである。

 その代わりといおうか、移住してから間もなく、斗南藩士による寺子屋、私塾がいたるところで見受けられるようになる。ざっとあげても三厩村(氏名不明)、鯵ヶ沢町(北原房夫)、岩崎村(神指某)、十和田市(柴宮源右衛門)、野辺地町(安積泰助、土屋勝之進、佐瀬義之助、堀恒助)、百石町(丸山主水)、八戸市(山浦鉄次郎)、同(大垣義五郎)、三戸町(上島良蔵)、五戸町(倉沢平治右衛門)、同(内藤信節)、田子町(根橋伝吾)、新郷村(井関恪斎)などが記録されている。

 このなかで代表的な私塾を取り上げてみたい。鯵ヶ沢町における北原房夫の塾は「会津塾」とよばれ、明治3年頃から同30年代まで経営されたとあり(新政府による「私塾廃止の布告」の影響がなかったのかどうかは不明)、同塾で学んだ寺子は145名に及ぶという。授業内容は読書、習字が主であり、指導方法は反復練習主義。快活な音読と師伝通りの解釈に遅滞のない場合のみ、新しい教材に入り、優秀な者は四書の指導を受けた。指導は厳しく、怠惰、不従順な寺子は草紙をまるめた円筒で後頭部を殴られたという。明治6年7月に鯵ヶ沢小学校が開校されてもなお会津塾は継続され、同塾と小学校の両方に通う者、あるいは会津塾のみに通う者が共存したらしい。後に北原は役場吏員として採用され、塾は明治33年になくなったものの、当地における教育者や漁業、商業の指導的立場で活躍する人材を多数輩出したのである。

 野辺地町の安積泰助を始めとする斗南藩四氏による塾も「会津塾」と呼ばれた。漢字と書道を教え、後に旧盛岡藩代官所に移ったといわれている。明治6年9月、会津塾ならびに地元で寺子屋を開いていた工藤清一郎、中村次郎衛右門、林文内、川村藤右衛門、鈴木左居の各人が集い、寺子屋を合併、これを母体として学制にのっとった野辺地小学校が誕生する。主座教員は斗南藩士の土屋勝之進ほか7名とある。

 百石町における丸山主水(もんど)の場合、明治6年、百石で寺子屋を営んでいた三浦義良に請われて寺子屋の師匠となったとある。明治10年に百石小学校が設立されると丸山は主座教員となる。百石小学校の二代目校長は丸山の実子である茂が継ぎ、孫の董(ただす)は三代目の校長となり、百石地区における初等教育に大きく貢献した。

 五戸町の「中ノ沢塾」は倉沢平治右衛門が開いた。倉沢は上田八郎右衛門の六男。12歳で日新館に入学し、17歳のときに講釈所生に及第した俊英である。20歳のときに神道精武流の免許皆伝となり、同じ年に倉沢家の養子となった。斗南に移住後は小参事として藩の庶務を統括、野辺地支庁長を務める。後に五戸に定着し、明治10年頃に中ノ沢塾を開く。そこでは四書五経の素説を中心に儒教的教育精神を施したとある。倉沢の薫陶を受けて後に活躍した人物としては、江渡狄嶺(思想家)を始めとして教員、軍人、官吏、医師、実業家など多士済々である。こうした斗南藩士による寺子屋、私塾の経営と指導実績、さらには地元への各種貢献が評価されたのはいうまでもない。

 盛岡藩には古くより藩校である「作人館」があり、多くの俊才を育英した。そして作人館の分校ともいうべき為憲場(三戸)、威昭場(五戸)を設けて子弟の教育にあたり、有為な人材を数多く輩出している。さらには文武に優れた地元の盛岡藩士や地侍ともいうべき「給人」(平時は百姓仕事などをし、戦争や変事が起こると武士の身分で出動した)による寺子屋や私塾も隆盛をみていた。学制に伴う小学校開設、それによる教員の確保にあたっては、士族、神官など知識階級を総動員することとなり、優秀な寺子屋の師匠、私塾の塾頭など、教員の資格の有無を問わずに採用されることになったのである。

 斗南藩士ならびにその子弟の多くが自治体の長や官吏、教育の現場に採用された理由はこれだけではなさそうだ。新政府による配慮も見受けられる。戊辰戦争での敗北以来、不毛の地への移住、そして多くの病死者や飢餓による死者を出したみのならず、廃藩置県によって藩ならびに松平家再興の夢まで奪った新政府に対しては不満が鬱積していた。まさに爆発寸前である。しかも地租改正、徴兵令(ともに明治6年)の制定は全国の士族の反発を招き、小競り合いが頻発していたのである。さらに征韓論問題(同6年)では新政府内部で派閥抗争と内部分裂が表面化し、新政府に対する信頼は崩壊寸前といってよかった。もしこのまま旧会津藩士たちが先陣を切って新政府に反旗を翻したら、それこそ全国の士族たちがそれに呼応し、再び国を分けての戦争を招くとも限らない。不満をそらす意味でも、生活が成り立つ行政や教育の現場に斗南藩士を数多く採用したという説もある。いずれにしろ、就業の機会を得た旧斗南藩士とその家族は、薄給の身分ではあったものの、生活もようやく一段落する。大庭勇助家族も三戸町在府小路に住まいを構え、恒次郎など子供たちの教育・養育に努めた。