ヘレン・ケラー(1880~1968)87歳


  目、耳、口の不自由さを乗り越え、アメリカのみならず世界の障害者に「生きる希望」を与えたヘレン・ケラー。彼女が残した業績は数々あるが、もっとも評価されるべきは、「障害を持ったとしても、人間として誰もが普通に生きる権利があるのだ」という一貫した信念と、それに基づいての行動にある。身体障害者福祉法の制定などに大きな影響を与えたヘレン・ケラーだが、その晩年は慎ましいものだった。

「奇跡の人」で一躍世界のヒロインに
 ヘレン・ケラーは1880年(明治13年)6月27日、アメリカ・アラバマ州の小さな町タスカンビアに生まれた。父親は南北戦争時に南軍の陸軍大尉だったアーサー・ケラー。彼は裕福な地主であり、「ノース・アラバミアン」という新聞のオーナー編集長でもあった。生まれた当初はなんの問題もなかったが、1歳7カ月のとき原因不明の高熱に見舞われ、猩紅熱(しょうこうねつ)の後遺症で視力、聴力、そして発声までも失う。

 不幸な娘のために両親は家庭教師を雇うことを決める。それがアニー・サリバンである。彼女のヘレンに対する厳格で献身的な教育は、ウィリアム・ギブソンの戯曲やそれを映画化した『奇跡の人』で広く知られるところだ。やがてヘレンは聾唖学校で触読法と発声をマスターし、米国の女子教育の名門であるラドクリフ大学に入学。1904年には同大学を優秀な成績で卒業。ほどなく自分に与えられた使命が障害者の救済にあることを自覚し、著述と講演を精力的に行う。1964(昭和39)年9月には、母国のジョンソン大統領から、米国で最大の名誉である「自由勲章」を授与されるまでになった。

 彼女は生前、1937(昭和12)年、1948(同23)年、1955(同30)年の3度にわたって日本を訪れている。とくに1948年の際は、敗戦で打ちひしがれた日本国民の熱狂的歓迎を受け、全国各地で講演して回り、これが2年後の身体障害者福祉法制定となって実ることになる。「東京ヘレン・ケラー協会」もそのとき集まった募金を基に創設され、彼女は協会の名誉総裁を引き受けている。1955年の来日の際には、ヘレン・ケラー学院の講堂で講演し、成果を見届けている。

許されなかった自由な言動と結婚
 若い頃には「汚れなき谷間のユリ」として称され、人びとから敬愛されたヘレン・ケラーだが、アメリカ国民と家族を失望させる事態を招いたこともあった。1909年、彼女はアメリカ社会党の党員になり、さらには世界産業別労働者組合(IWW)支持を表明、労働者の権利擁護、死刑廃止、子どもの雇用禁止などを声高に訴える。さらに低所得者層の産児制限、全米黒人協会を支持したときには、多くの人びとから反感をもたれる。そこには「ヒロインは卑しい世界に首を突っ込むな。障害者は障害者らしく静かに慎ましく生活していろ」との差別的意識があった。また、36歳のときに7歳年下の秘書だったピーター・フェーガンからプロポーズされ、二人は婚約、駆け落ちまで決意する。だが、ヘレン家族の強硬な反対に会い、二人は破局を迎える。障害があるものの、一人の女性として自由に発言、行動、結婚をすることに、当時はまだ不寛容だったのである。56歳のときに人生の師であり、支えだったアニー・サリバンを亡くし、深い悲しみに陥った。

晩年は独りで暮らすことが多かった
 第二次世界大戦が終結したのは、彼女が65歳のときだった。ここからが彼女の晩年といっていいだろう。亡くなったアニーに代わってポリー・トムソンがヘレンを支え、海外盲人アメリカ協会の代表として彼女は精力的に海外講演などをこなす。72歳のときにはフランス政府から「レジオン・ドヌール勲章」を授与される。しかし80歳のときにポリー・トムソンが亡くなり、それ以後、ヘレンの世話は秘書と看護師がみることになる。気が向くと妹が住むアラバマ州を訪れたり、100キロ離れたニューヨークコへ食事や買い物に出かける以外は、コネチカット州ウェストポートの広大な邸宅で静かに過ごしていた。

 80歳の誕生日を迎えた彼女に新聞記者は将来の計画について質問した際、彼女はこう答えている。「私は息が続く限り、常に障害者のために働くつもりです」と。軽い脳卒中を起こしたのは81歳のときだった。それからは親しい人びとの交流も途絶えがちとなり、独りで過ごす時間が多くなる。そして亡くなる2年前には軽い心臓麻痺を起こし、寝たきりの状態が長くなり、世界の人びとがその容態を心配していたが、1968年6月1日、88歳の誕生日を目前に自宅で静かに息をひきとった。

 ケラーの付き添い役だったコーバリーさんによると「彼女の死は実に安らかでした。この数年間、だんだんと衰弱してしまったせいか、すっかり死の覚悟ができているように見え、死を恐れている様子もありませんでした」。生前の彼女の楽しみは、毎朝、庭にやってくる小鳥たちに餌を与えることだった。だが、彼女が亡くなった日には不思議にも一羽も庭には舞い降りてこなかったという。
亡骸は首都ワシントン大聖堂の地下に安置され、そこにはアニー・サリバンも眠っている。

参考資料・出典
「伝記 世界を変えた人々14 ヘレン・ケラー」 フィオナ・マクドナルド著 
菊島伊久栄訳 偕成社(1994年)

毎日新聞(1968年6月3日付朝刊)



  メイ・牛山(1911~2007)97歳


 戦前、戦後を通じて美容界をリードし続けたメイ牛山。高度成長期から食事が欧米式になったことに危機感を持ち、日本の気候風土に合わせた美容法や食事法が大切であることを提唱。本物の美しさを追求し続けた。

 元祖カリスマ美容師とはこの人のことを言うのであろう。司葉子、藤村志保、岩下志麻、久我美子、岸恵子ら、戦後の昭和を彩った数多くの女優をはじめ、皇族、財界、政界などのセレブ婦人たちからも愛され続けた。

 テレビに映る彼女はトレードマークの団子ヘアに気取ったような眼鏡。そして高価そうな衣装に身を包んでいた。一般庶民とは無縁の存在かと思いきや、茶の間でも人気があった。その理由は彼女の提唱する美容理論、健康法が誰でも実践できるものだったからである。そして彼女の発言は的を得たものが多く、日本人であることを誇りに思わせるものだった。

 昭和4年、18歳で上京して間もなく美容師として才能を開花させる。昭和14年、ハリウッド化粧品の創業者である牛山清人氏と結婚。以来、メイ牛山の名で戦後も日本の美容界を牽引し続けた。さらに酵素の働きに着目し、それを化粧品に取り入れた画期的な商品を開発するなど、ハリウツド化粧品のブランド名とメイ牛山の名は海外にまで知られた。


四季の美容法と三大排泄美容法
 本物の美しさとは何かを追求した結果、たどり着いたのが化粧プラス体と心の美しさである。それを実現させるためには日本の気候風土に合わせた美容法と食事法が大切であると説き、「四季の美容ダイヤル」を考案した。これは人間も自然の移り変わりに影響されており、風土や季節に応じた食べ物や美容法があるという考えで、たとえば秋の肌には特に優しいケアを、メイクやおしゃれは華やかで優雅に…という具合である。

 同時に、皮膚、身体、心の汚れを排泄する「三大排泄美容-SBM理論」を提唱する。これは真の美しさを引き出すためのことでもあり、皮膚からの排泄(洗顔・入浴)、体からの排泄(血液浄化・排便)、ならびにストレスなど暗い心の排泄を意味する。内面を伴った本当の成熟した美しさが現われるのは中年からで、だから「人間はやはり見た目が大切。こぎれいなおばあちゃまを目指して」と強調する。

 実はその彼女も25~40歳の頃に肉食中心の食生活を続け、家族全員がアレルギーや疲労、物忘れ、イライラ感で悩んでいた。そんな折に夫の清人氏が倒れ、自然食で高名な栗山毅一先生の指導で「美健食(美容健康食)」の研究を始めることになったのである。「四季の美容ダイヤル」にもあるように食事も風土と季節に合ったものが一番で、日本は主食のお米と旬の野菜中心の副食という昔からの食事が理にかなっている。そしてこの自然食の正しい摂取で膵臓ガンを宣告された夫がみごとに回復して天寿を全うし、彼女もはつらつと長寿をまっとうすることができたのである。
 
晩年のライフスタイルと語録
 空気の澄んだ朝の4時に起床し、5時には自宅のベランダで5分間のストレッチ、スクワット、前屈などをするのが日課だった。「朝の新鮮な酸素を取り入れると、一日中頭がスッキリして回転もよくなる」からだ。そしてパンくずなどを与えているうちに、顔なじみとなった雀との朝の挨拶も楽しみのひとつとなる。「雀ちゃん、私のことをよく覚えているのね。私がベランダに出ても逃げないのよ。生き物は心が通じるんですね。愛情を注いであげれば必ず返ってくるものなのよ」。

 好奇心も持ち続けた。若い頃は歌手の灰田勝彦の「おっかけ」をしたことがある。だから、晩年も六本木ヒルズあたりで、若い世代の流行や関心事に目を光らせ、自分も楽しんだという。「野次馬根性は若さの秘訣よ。なんでも自分の目で見て確かめること」。

 自分を磨くために「一流もの」「お金の使い方」にもこだわった。「一流のものを使わないと一流になれないわね。一流のものは高いけれど、それには理由があるのね。高いけれど一生ものの道具は間違いないわよ。一流のものを使うと背筋がすっーと背筋が伸びて自分も一流になるのよね。自分への投資よ。大事にするから無駄もでないし、受け継がれるのね。昔の人は「安物買いの銭失い」って、よく言ったものね」。「お金は使い方では下品にも上品にもなるから注意しておいたほうがいいわね。高くない買い物でも、1000円札をピン札で用意しておくのよ。銀行で替えてくればすぐよ。1000円札でも「きちんとしたお客様だ」って見られるのよ。そうすると人生も変わってくるわ。こっちも向こうも得した気分よ。私のお店はいつもピン札を用意させているわ」。美容、健康法だけでなく、人生を成功させる秘訣も持ち合わせた人だった。

PROFILE
美容家。1911年山口県生まれ。「ハリウッド化粧品」ブランドで知られるハリウッド会長。欧米の最新技術を取り入れ、日本の美容界の発展に寄与した。同時に健康、食事の面でも独自の理論を提唱、自ら実践して長寿をまっとう。2007年に没。

長寿のヒケツ
食事
朝食は必ず摂った。そして地元で採れた四季折々の野菜、果物、魚を食することを常に心がけた。

健康法
朝の4時には起床し、5時から軽い体操。そして散歩が日課だった。ストレスを溜めないことも忘れなかった。

趣味
旅行。若い世代との交流。美容学校で生徒たちと、そして自身が主催するサロンで若い世代から刺激と情報を得た。