節目となった天皇の東北巡幸



 お家再興の夢が潰えた藩士たちにとり、精神的支えとなったのが「我らは朝敵・賊軍にあらず」という強烈な思いである。そのために藩士たちは会津人としての存在感を世に知らしめようと努めた。その意味で明治9年という年は、青森県に残留した旧斗南藩士たちには一つの区切りとなる年となったようである。逆賊・朝敵という汚名を多少ではあるがそそぐことができたと実感できたからだ。明治天皇による「東北巡幸」である。民情、地方産業、教育事情の視察にとどまらず、孝子、節婦、産業功労者の表彰、高齢者、赤貧者への金穀授与等にも及んでいる。同行したのは北白川宮能久親王、有栖川宮熾仁親王、岩倉具視、大久保利通、大隈重信、大木喬任、高崎正風ら総勢148名。

 同年6月2日に東京を発ち、白河、仙台、盛岡を経て三戸に入ったのは7月10日である。三戸駅に到着の折には、一般奉迎者とともに三戸小学校を始めとする小学生徒150人ほどが出迎えた。そして夕刻近く、三戸小学校に赴き当地産の馬160頭を天覧、5頭の馬を買い上げている。この際、給仕人として選ばれたのが小学生だった大庭恒次郎である。彼はこれを生涯の光栄とした。また、同校の教員だった渡部虎次郎は明治14年における二回目の東北巡幸の際には、行在所の表札を揮毫するという栄誉に浴しているのだ。

 巡幸は三戸から五戸小学校へと移る。前にも記したように、五戸は多くの旧斗南藩士ならびに子弟が在住し、自治体の長、教育の現場で活躍していた地である。この折、巡幸御用掛の大役を無事に務めたのが青木準之助である。彼は会津若松に生まれて五戸に移住。青森県等外4等出仕を振り出しに、等外1等出仕、そして青森本庁勤務となり県会掛に任命されていた。二回目の巡幸の折にも同じ大役を務めている。

 さらに旧斗南藩士族による三本木開墾地、西洋に学び近代的牧場を開業していた広沢安任の元を訪れ、広沢に金50円と椅子を下賜している。このとき、旧知の大久保利通が天覧前日に広沢のもとを訪れ、国のために仕官するよう説得に努めたが、「野にあって国家に尽くすのが自分の本分である」と固辞した話は有名である。

 青森小学校(青森市)では同校のほかに白銀小学校(弘前市)、田名部小学校(むつ市)の3校から上等8級生徒をそれぞれ7名、10名、5名を出席させての天覧授業が行われ、「その優等なるをもって」輿地誌略一部代金として金1円をそれぞれが行在所から下賜されている。このとき田名部小学校の初代主座教員であり引率者だったのが沖津醇だ。しかも天覧授業に参加した5名の生徒のうち、中田操、木村重功、小池尚、山田茂の4名は旧斗南藩士の子弟だったのである。青森県教育史にはこう書かれている。「忠君愛国と士族意識の影響からか、沖津の引率は『われは賊軍にあらず』という天皇に対する弁解強調の立場をとったものと思われる」と。さらに青森小学校の受持ち教師細川弘と田名部小学校の受持ち教師井沢信もまた旧斗南藩士だった。

 明治天皇によるこうした旧斗南藩士ゆかりの場所での天覧、ならびに学校視察や授業の叡覧は、学事、教育関係者に携わる旧斗南藩士のみならず、その子弟であった生徒たちに対しても大きな感銘と刺激、意欲を与えることになったのである。

 大庭恒次郎は三戸小学校では抜群の成績を収めた。同期生に梶川重太郎(三戸町出身)がいた。梶川は後年、陸軍大学を首席で卒業し、恩賜の軍刀をいただいた俊英であるが、恒次郎は在学中、彼と常に首席を争ったのである。明治13年、恒次郎は同小学校を第一回目に卒業。三戸小学校の初代校長であり、私塾「暇修塾」を開いていた米田謙斎のもとでさらに勉学に励み、同20年、第一回青森師範学校卒業生として三戸小学校に赴任する。その後は東津軽郡視学(学校現場の現状を視察し、教育内容に関わる行政を司った中央・地方の職制)、三戸町町長、三戸郡視学、三戸尋常高等小学校校長を歴任する。

 ちなみに初代の文部大臣となった森有礼(薩摩出身)は明治21年10月、三戸小学校を視察している。同校の沿革史には「高等科上級生の体操を観、大臣親しく簡易科3年生に暗算を課す」との記述があるが、体操向上と小学校簡易科の充実は、森が最も重視していた点らしく、特に所望しての視察だったらしい。三戸小学校は大臣視察に耐えるだけの優れていた学校だったといえるだろう。新人教師だった恒次郎もこれを名誉とし、さらに教育の普及と研鑽にまい進したのはいうまでもない。

  杉原凱の墓碑と沖津醇の会津士魂

 三戸大神宮は天照大神を奉斎する、三戸郷総鎮守として古い歴史と高い格式を誇る名社である。社伝によると文禄元年(1592)、伊勢神宮より分霊を勧請し奉斎したのが創祀とされている。以後、この地の支配者であった南部氏の崇敬が事のほか厚く、数々の祈願が寄せられたのみならず、武家や庶民の信仰も広く集めてきた。今も学業成就、合格祈願、神恩報賽で訪れる人々が絶えない。

 この三戸大神宮で明治19年、一基の墓碑が建立された。日新館教授であった杉原凱の墓碑である。建立したのは沖津醇(田名部小学校初代主座教員)渡部虎次郎(三戸小学校三代校長)など、杉原から教えを受けた、あるいは影響を受けたと思われる十余名の旧斗南藩士たちである。

 杉原凱とはいかなる人物か。先の大庭紀元氏ならびに三戸大神宮禰宜の山崎貴行氏が丹念に調べていた。両氏の資料を元にまとめると以下のようになる。

 沖津醇が書いた「近世会津藩士偉行録並補遺」によると、生まれたのは文化3年(1806)。通称は外之助。士分は黒紐で上級武士だった。幼い頃から文学を好み、「日新館童子訓」や「新編会津風土記」の編集に加わり、四書訓蒙輯疏で有名な儒学者安倍井帽山に師事。学業を修めた後、若松で私塾を開いて子弟の教育にあたった。その数は100余名に及ぶといわれ、当時「学館より講釈所に及第せんとするに際しては、凱に従わざるものなし」と言われたほどであるから、優れた指導教授法を持っていたものと思われる。

 天保(1840~43)の末、日新館素読所北学館の学館預かりとなり北学館長に就き、後に医学寮師範補助を経て本草科(薬用植物の研究ならびに薬学一般についての研究)の教授に累進する。日新館から退いた後は自宅で経史などを教授、明治3年に三戸に移住したものの、一年後に66歳で病死、その遺体は三戸大神宮に葬られた。

 同碑に沖津醇はこう刻んでいる。「先生は私がかつて付き添い学んだ恩師である。そしてその懐かしさを忘れることができないと、同門の人数人が相談して19年に墓の上に碑を建立した。その碑の銘にいわく『死後の世界と現実の世界とその堺を隔てている。しかし幾年月を経てもぼんやりとほのかにみえ、あたかもここに生きているごとくである。その声と姿形は忘れてはならない』と」(書は渡部虎次郎)。

 杉原が没してから15年目の碑建立である。なぜこの時期の建立なのだろうか。それには沖津醇という人物とその教育にかけた生涯を知る必要がありそうだ。

 沖津は旧名を甚太夫といい、天保2年(1831)の生まれ。松平容保が京都守護職に就任するとそれにつき従い、京都では諸藩の士と交友しながら進歩的な思想を吸収。会津の戦いでは中隊長の身分で白河口において奮戦した。斗南に移住後は前述したように田名部小学校初代主座教員を務める。それから間もなくその学識を買われて県15等出仕に抜擢され、明治7年には小学教授見習いのために東京師範学校、東京府講習所に長期出張を命ぜられる。
 

 青森に戻ると青森小学校の一等教員となって県内の小学校を巡回して教授法を指導。再び県庁に戻って庶務課学校係となり史生(書記官)に任ぜられ、学校教育の重要性を説いた「学校興起ノ鄙見」を提出、ひたすら青森県の学政振興に腐心し、県内小学校教育の普及と充実に努力したのである。明治16年には青森県師範学校長兼専門学校長に迎えられたが、翌年には校長を辞して単に師範学校の嘱託教師となり、同19年にはその職も辞す。そして同20年4月、青森の松森町に私立青湾学舎を開設して小学部と青年部(夜間部)を設け、主に貧民の子弟を対象に教育を施したのである。杉原凱の碑建立は、沖津が県の学校教育の第一線から身を引き、今風にいえば「第二の人生」を私塾にも似た青湾学舎に託そうとするちょうど一年前にあたるのである。

 沖津が杉原凱をいかに敬愛していたかは前にも触れた。私塾を開いて、あるいは日新館においても優秀な生徒を育てあげ、日新館を辞してもなお自宅で後進の指導にあたった杉原凱は、いわば「教え導く現場」にこだわり続けた人生だったといえる。沖津もまた、そうした現場にこだわり続けようとしたのではなかろうか。年齢、経験、身分からしても「教え導く現場」に留まることが難しくなり、管理職・名誉職的な立場へと祭り上げられていく。教え子たちと「常に付き添い学び合う」には私塾で教育を実践するしかない。杉原が自宅で教授法を指導したように。

 また、政府による教育方針にも不満を募らせていたようだ。明治18年前後、青森県の小学校就学率は全国でも最下位だった。理由は授業料を支払って通学させるだけの余裕がなかったからである。そこで文部大臣の森有礼は同19年4月、「小学校令」を公布して教育制度の改革に乗り出す。これは尋常科と高等科の二科に分かれ、修業年数をそれぞれ4年とした。このうち尋常科の4年は義務教育年限としたものの、土地柄の状況に応じては修業年限3年の簡易科をもってこれに替えてもよいこととしたのである。さらに簡易科には授業料の免除、教科書の貸与などの特典を与え、貧困の児童でも就学が容易になるよう配慮もみせた。にもかからず、沖津は納得しなかったようである。陸奥新聞が沖津の心情をこう紹介している。「当時、町立小学校授業料規則改正のことあり、左なきだに督励上非常に困難なる貧民子弟のために、一層不就学の理由を与え、加うるに校舎狭隘のために、生徒の入学を拒絶したることありて、一時就学児童は著しき減少を来したり。氏(沖津)思う。今や教育の法、日に新に月に革り、追々完美の域に進むといえども、多くはこれ表面上の体裁を改良するに止まり、能く真に児童の心智を耕すもの少なし」と。

 我が信ずる教育道を突き進む。この決意を確固たるものにすべく碑の建立を思いたったのではなかろうか。そこにはまた、旧斗南藩士とその子弟たち教育者に対し、「杉原凱先生の遺徳を偲ぶとともに、日新館教育の流れを汲む我らが、今後の青森県、ひいては日本の教育に貢献しよう」との、奮起を促す意味合いも含まれていると思われる。青森に限らず、中央や主要都市でも会津・斗南出身者が教育界で活躍し始めていたからだ。