山川兄弟と斗南出身の大物教育者たち


 明治19年前後、教育界で頭角を現し始めた会津・斗南藩出身者の代表といえば、山川浩と健次郎の兄弟があげられる。浩の場合、失意のまま斗南を後に上京。明治10年に西南戦争が勃発すると彼は西征別働軍の参謀に任ぜられ、華々しい活躍をしたものの、陸軍大佐どまりの不遇な扱いを受ける。だが、文部大臣森有礼のすすめで軍人の身分のまま東京高等師範学校(明治18年)、東京女子高等師範学校(同19年)の校長に転進、旧制中学や高等女学校、師範学校の教員の養成にあたった。校長としての山川は学校運営や管理面などは教頭以下に任せ、その分、学生との対話に力を入れたという。また積極的に教育現場を視察しては、教師や生徒たちとも対話を欠かさなかったらしい。その教育姿勢は杉原や沖津とも共通する。

 この山川浩が三戸を訪れたのは明治21年7月29日である。東京高等師範、東京女子師範の両校の校長に就任していた時代だ。職務上の巡回ではなく、個人的な避暑漫遊の旅行だったらしく単身での来県である。浩の宿泊先を訪ねたのは渡部虎次郎、大庭恒次郎など、旧斗南藩出身の教員数名である。そこで浩はこう語ったとある。「自分が戊辰戦争の後、この土地を去ってからすでに二十数年過ぎてしまったが、今この地にやってきて、実に自分の生まれ故郷にいるような気持ちになった。諸君がすでに分かっているように、自分は思ったことは口に出さずにおれん性分である。失礼な言葉も出たかも知れんが許してくれたまえ。もし今度三戸に来るようなことがあれば、公の立場で諸君と学校の教育現場で再会したいものだ。その時になって自分から叱言をもらわんよう、十分勉強しておいてくれたまえ」。記述はないが、杉原凱の墓碑を訪れて参拝したのは間違いないだろう。同郷の偉大な先輩にして教育界での大御所の言葉に、渡部虎次郎や大庭恒次郎たちは大いに励まされたに違いない。ちなみに山川浩が三戸を去ってから2カ月ほど後に、文部大臣の森有礼が三戸小学校を視察に訪れていることは前述したが、これは単なる偶然だろうか。

 浩の弟である健次郎は会津降伏後、藩の公用人だった秋月悌次郎の手引きによって長州藩士の奥平謙輔を頼り、越後を脱走。その後は奥平の書生となって上京、英語を習得する。さらに北海道開拓使の留学生としてアメリカのエール大学で物理学を学び、帰国後は東京帝国大学の前身である東京開成学校教授補となる。同14年東京帝国大学教授に就任、日本人初めての物理学教授となり、同19年には理科大学教授(後に学長)。以降、高等教育会議議員、東京学士会院会員、東京帝国大学総長、九州帝国大学総長、京都帝国大学総長、東京帝国大学名誉教授などを歴任し、同37年には貴族院議員に勅選され、大正12年には枢密顧問官となっている。明治から大正にかけて学界、教育界の大御所として知られた逸材である。ちなみに健次郎の恩人でもある秋月悌次郎は明治18年、東京大学予備門、後の第一高等学校の教壇に立ち、後に熊本の第五高等学校の教授に就任している。

 東京高等師範学校の校長は、山川浩が就任するまでは斗南藩士であった高嶺秀夫だった。高嶺は明治3年、戦争責任で幽閉中、福地源一郎の門下に入って英語を学び、その後、慶応義塾で歴史と経済学を修める。やがて福沢諭吉の推挙を経て渡米、師範教育を研究する。留学中に世界的な教育者として知られたヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ-に出会い、「民衆教育の父」といわれた彼の教育論から様々なことを学ぶのである。帰国後の明治11年、東京師範学校長に任命され、独自に考案したといわれる「心恵開発教育主義」を主唱し、師範教育の基礎を定めた。高峰は後に東京女子高等師範学校長に就任するが、山川浩が学校長として就任してからは同校の教頭として浩を補佐し、「高等師範学校には旧会津藩の2人のつわものが目を光らせている」と、師範教育における影響力を見せつけた。

 明治学院大学創設にかかわったのが井深梶之助である。井深梶之助は、安政元年(1854)に城下本三之丁(現在の東栄町)に生まれた。父、宅右衛門は、藩校日新館で学頭を務める、会津藩きっての知識人だった。梶之助も14歳で日新館に入学する。会津藩の降伏により梶之助は西洋の圧倒的な技術力を知り、その背景となる西洋学を学ぶべく16歳で上京。斗南藩・土佐藩の私塾を転々とし、横浜の「修文館」の学僕となり、そこで英語を教えていた宣教師のブラウンと出会いが転機となった。明治10年、ブラウンの塾が発展的に解消して東京一致神学校となり、同19年には明治学院となるのだが、この際、梶之助は副総理を務めることになる。36歳でアメリカに留学し、帰国後は総理に就任する。

 同23年、文部省は公認学校における宗教の儀式・教育を禁止するとの布達を発するが、井深梶之助はこれに猛反発、憲法に定める信教の自由を主張し、公認学校としての特典を拒否して宗教教育を堅持した。宗教系の学校がようやく日本にも根付こうとした矢先の出来事だっただけに、関係者は大いに勇気づけられたのはもちろんだが、政府の強権的な施策に反発していた人びと、そして旧会津・斗南関係者は溜飲を下げたに違いない。
いずれにせよ、三戸町における杉原凱の墓碑は、斗南出身の教育者にとってはシンボル的存在となっていくのである。

  招魂の碑


 三戸町馬喰町にある悟信寺は、寛永4年(1627)に創建された浄土宗の寺である。明治27年8月、同寺に旧斗南藩戊辰戦死者を祭る「招魂碑」が建てられた。この年は戊辰戦争で亡くなった人々の27回忌にあたる。横書きの「招魂碑」という篆分は子爵となった松平容大によるもので、碑文の撰は維新後、京都中学、高等師範学校、東京帝国大学の教授を歴任した南摩綱紀、書は渡部虎二郎である。

 大庭恒次郎は建碑にいたるまでの経過を「建碑日誌」にこまかく書き記していた。それによると同年4月、第一回の集まりを持ち、「斗南移住後は逆賊の汚名を蒙り、様々な苦労と辛酸を舐めつくしたものの、時の流れはそれを洗い流し、自治体や教育界で多彩な人材を多数輩出してきた。のみならず政府ならびに皇室へも多大な貢献をし、今や天下の諒とするところとなり、もって人臣の亀鑑となすまでになった。南部三戸に移住した旧藩士は今こそ相計り、碑を立て、その事を録し、もって後世に伝え、かつその魂を招き、これを祭るべきである」と、建碑に踏み切ったとある。委員長は渡部虎次郎、委員に鈴木林助、小林丈八、佐藤締助、和田鉄次郎、大庭恒次郎の計6名だ。

 建設費用は25円。建設後の弔祭費が20円。合わせて45円である。このうち建設竣工までの費用は臨時社債を起こし、月2割の利子で借り入れることを決議する。そして弔祭費は一戸20銭ずつ出し合うこととした。

 当時、米は一石8円。木炭1俵が25銭~30銭。大工の一日の手間賃が27銭。尋常小学校校長の月給が15円。訓導が7円~8円という時代である。一戸20銭という出費は大変だったに違いないが、会津戦争に敗れてこのかた、戦死者の埋葬、慰霊もままならなかったこれまでのことを振り返れば、どうしても区切りをつけたい碑の建立だった。

 碑の台石、竿石の石材は三戸の城山にある石を60銭で払い下げてもらった。6月23日の朝、運搬作業は開始される。およそ30人の人夫を雇ったのだが、台石は約3トンもあり、これを板を敷いた上にコロを置き、綱でひっぱるという手間のかかる作業となった。昼過ぎ、通称「ベゴ(牛)の鼻」と呼ばれる崖っぷちから桐萩という地区に転げ落とすことができたものの、作業はその日で終わらなかった。作業は翌日に持ち越され、難儀な作業を知った三戸町在住の旧斗南藩士が次々と応援に駆けつけ、夕方近くになってようやく目的地である悟信寺に運びこむことができた。関係者はそのまま同寺に残り、酒盛りをして慰労をしたとある。時あたかも日清戦争の火ぶたが切って落とされる約1カ月前だ(宣戦布告は8月1日だが、7月25日の豊島沖の海戦で実質上の戦闘状態に突入する)。戦死者たちを丁重に弔うと同時に、西南戦争で功績をあげたように、会津士魂をもって清国を倒すべく気勢をあげたことだろう。いずれせよ、こうして三戸町における会津三碑は完成する。

 それから時はさらに過ぎ、昭和49年5月、三戸町で「三八斗南会津会」の総会が開かれた。同会は三戸、八戸に住む、旧会津藩士の子孫によって結成されたものである。会長は広沢安任の兄、安連(やすつら)を先祖にもつ広沢安正氏であり、副会長が大庭紀元氏である。その折に白虎隊の墓碑、杉原凱の碑、招魂碑の三碑を参拝し、風雪に晒されたままのそれらを維持保存するために資金を募っている。そして今もなお、節目ごとに参拝を欠かさない。移住して間もない折には「会津のゲダカ」「会津のハド」などと馬鹿にされ嘲笑されたのだが、土地に根ざした斗南藩士とその家族、子孫たちは奮闘努力を積み重ね、今では「会津さま」と称されるまでになったのである。その不屈の会津魂は今も脈々と受け継がれ、生き続けている。
 

参考資料・出典一覧

大庭茂・神亮一著「みちのく逸聞」(伊吉書店 1977)
大庭紀元寄稿「しるばにあっぷる 三戸における斗南藩の歴史 40号~43号」(有限会社青森福祉情報サービス NPO法人青森県福祉サポート協会)
三戸町史編纂委員会編集「三戸町通史」(1976)
三戸町史編纂委員会編集「三戸町史上巻」(1997)
葛西富夫著「新訂 会津・斗南藩史」(東洋書院 1992)
葛西富夫著「青森県の教育史」(思文閣出版 1985)
葛西富夫著「斗南藩興亡記」(下北史談話会 1966)
星亮一著「会津藩斗南へ」(三修社 2006)
星亮一著「会津戦争全史」(講談社 2005)
会津若松史出版委員会編「会津若松史第5巻」(1966)
三戸郡教育誌刊行委員会編「新三戸郡教育誌」(1994)
豊田国夫著「代官所御物書役の日記」(雄山閣 1990)
宮内庁「明治天皇紀 第三」(1969)
全会津剣道連盟著「会津剣道誌」(1967)
青森市編 「青森市史 : 第1巻 教育編」(1954)
青森県教育委員会編「青森県教育史 第一巻 記述編1」(1972)
東奥日報社編「青森県人名辞典」(2002)