アル・カポネ(1899~1947)48歳



暗黒外の顔役として世界的に有名
 アル・カポネといえばアメリカ・ギャングの代名詞である。アルは通称で本名アルフォンソ。頬にナイフの傷跡があったことから、スカーフェース(向こう傷)のあだ名もあった。
  
 イタリアのナポリで生まれ(生まれはニューヨークという説もある)、ニューヨークのブルックリンに育つ。はやくに学業を放棄し、ブルックリンのギャング組織にはいって10年近く活動。1920年代、酒の密造・密売、賭博、売春をとりしきっていたシカゴのギャング、ジョニー・トリオから組織を引き継ぐ。数年のうちに、敵対するギャングやライバルを次々と抹殺、この間の抗争では29年の「聖バレンタインデーの虐殺」がもっともよく知られている。以後、カポネはシカゴの暗黒街を支配するようになる。組織を拡大し犯罪組織を統合近代化、莫大な富を築く。その一方で義侠心に厚く、恩義を受けた人びとへの感謝を忘れず、生活貧窮者に対する食事の無料給付の慈善事業を行うなどの一面ももっていた。

晩年の大半を刑務所で過ごす
 48歳という若さで生涯を閉じたカポネにとり、32歳から39歳までの刑務所生活は彼の晩年といっていいだろう。数々の殺人に関与したにもかかわらず、証言やアリバイが得られず、司法当局も殺人罪での立件が不可能と判断。その代わり、財務省の特別税務調査官たちが中心となり脱税で告訴したのである。1931年10月7日、カポネの脱税裁判が始まる。裁判ではかつてカポネ帝国の会計係だったフレッド・リースが証言台に立ち賭博場のことなどを証言。そして合計11年の懲役、罰金8万ドルという、有罪判決を受け、同年10月24日にクック郡刑務所に入る。この刑務所でカポネは所長と職員を買収し、豪華な生活を送ると同時に、ここから様々な指示、命令を出して組織を動かしていた。所長がカポネの機嫌をとっていたというのだから呆れる。

 自由気ままな刑務所生活はわずか1年足らずに過ぎなかった。翌32年5月にはアトランタ刑務所へと移送される。当時、新聞は「アル・カポネが刑務所を牛耳っている」と書いたりしたが、実際には逆でカポネが他の囚人の標的になっていたのである。「酒と女はどこにあるんだ? このデブ野郎」などと言われたりもしたらしい。彼の味方といえば娑婆にいた頃、彼の世話になったわずかな連中だけである。ここでのカポネの仕事は靴工場で靴の修理だった。毎日8時間電動ミシンで靴底を縫い合わせ、その屈辱的な生活に何度も泣いたといわれる。さらに同年8月22日、カリフォルニア州のサンフランシスコ湾内にあるアルカトラズ連邦刑務所に移される。ここは断崖の小島で「ロック」、「監獄島」とも呼ばれ脱出不可能としてつとに有名であり、囚人泣かせの刑務所でもあった。ここでカポネは囚人85号として新たな辛い生活を送ることになる。

 囚人仲間のイジメは凄まじかった。36年、待遇改善を求めて囚人によるストライキがあったが、カポネは参加しなかった。このことで他の囚人から「妻と子を殺してやる」などの脅しを受けたのである。すると、彼は独房で毛布を頭からかぶり泣いていたという。「あの大物ギャングがなんてこった」と看守や囚人たちは彼を笑いものにした。「長い刑務所暮らしで頭がおかしくなったのだろう」と誰もが思ったようだが、それは病気だったのである。同じ年の6月23日にはジミー・ルーカスという囚人に刃物で刺されるという事件があった。原因はルーカスがカポネから金をゆすろうとしたが断わられたのと、ストに参加しなかったことである。その後、カポネの言動に異常さを察知した刑務所関係者は、彼をロサンゼルス近くの連邦矯正施設に移す。ここで彼の異常さの原因が判明するのである。

コカイン吸引が寿命を縮めた
 38年に身体検査を受けた際、刑務所の医師はカポネの鼻中隔穿孔に気づく。鼻孔の間にある軟骨組織に穴があく原因で最も考えられるのはコカインである。鼻孔の間にある軟骨組織に穴が開くほど吸うには、だいぶ前から吸っていないとできないのである。脳に支障がきたして当然である。しかも梅毒まで発症していた。39年、カポネは釈放され、ボルチモアのユニオン記念病院で梅毒の治療を受けることになる。梅毒治療として民間人ではじめてペニシリンを投与されたが、病気が進行しすぎていたので効果はなかった。4ヶ月の治療の後、彼は家族とともにフロリダのパーム・アイランドの家で自宅療養に入る。彼の出所を祝うかのように家には暗黒街の人間が訪れてきたりし、アルと雑談をしたり、他の兄弟と商談をしたという。彼自身寿命が短いことを知ったのか、これといった問題も起こさず、静かな余生を過ごした。その甲斐があってか、8年間も生き長らえる。亡くなったのは47年1月25日土曜日午前7時25分。出所してから死亡するまでかつて牛耳ったシカゴへ1度も戻ることはなかった。彼の死は日曜版に大きく報じられた。ニューヨーク・タイムズはこのことを「悪夢の終わり」と伝えている。


  小倉遊亀(1895~2000)105歳

「老いて輝く。60代までは修行。70代でデビュー。生涯現役」


 若い頃には野心もあり、それが芸術的自由を奪っていた。だが、理解ある多くの人びとに諭され支えられ、煩悩と凡俗を捨て去ることができた。才能が開花したのは老境に達した頃からである。

 105歳まで旺盛な制作活動を続けた小倉遊亀。野菜や果物、そして庭に咲く草花。あるいは日傘をさして歩く親子と犬。針仕事をする女性など、身近にあるものを好んで絵画に表した。澄んだ色彩と骨太な線描が特徴といわれる彼女の作品、とりわけ晩年の作品の多くは、観る者を微笑ませ和まし、ときには郷愁を誘い、心癒してくれるものが多かった。それらの作品には、遊亀の人となり、価値観、哲学が凝縮されていたからだろう。

 奈良女子高等師範学校を卒業した遊亀は、当然のように教育の世界に身を投じた。京都の小学校、名古屋の高等女学校を経て、仏教徒にもかかわらず横浜のミッションスクールで教鞭をとる。同時に学生時代から習っていた絵画にも専念する決意を固め、日本美術院の画家安田靫彦(ゆきひこ)の門を叩き入門を許可される。このとき安田は「一枚の葉っぱが手に入ったら、宇宙全体が手に入ります」と、哲学めいた、あるいは仏教問答のような言葉を投げかける。遊亀が真にこの言葉の意味を理解するのは老境に達してからだ。遊亀の才能を見抜いた安田は絵画展への出展を薦める。そして33歳のときに院展で初入選。続いて院展の同人となり、数々の賞にも恵まれその才能を開花させていく。

人生の師によって目を覚ます
 順風満帆に見える遊亀の作家活動だが、人知れず悩みを抱え、葛藤もしていた。それらから解放されたのは理解ある人びととの出会いである。絵画制作と同時に病気の母親の介護に明け暮れ、心身ともに行き詰まりを感じたとき、ミッションスクールの校長に温かい励ましの言葉をかけてもらった。信じる宗教は異なるものの「その信仰の厚さに頭が下がると同時に、菩薩様とはこういう人をいうのだろう」と、感激している。

 また、描くものがマンネリ化に陥ったとき、師の安田からは「決して捉われてはならない。5年に一度は白紙に立ち返り、見た感じを逃さぬように心がけていけば、そのつど違う表現になっていく」とアドバイスを受けている。そして遊亀が「捉われている」ことをズバリと指摘したのが、熱海で精神修養道場を開いていた報恩会の小林法運である。小林との出会いは病気の母親を通じてである。修養道場に通ううちに母親の病気が治ったのをきっかけに遊亀も通うようになった。煩悩を抱えた遊亀を前に「絵、金、名誉、師を捨て去れ」と命じる。躊躇する遊亀。すると小林は「お前は捉われやすい奴だな」といわれ、これで目が覚めたのである。小林が言ったのは、絵、金、名誉、師のそれらを捨て去れという意味ではない。それらに縛られてはならない、執着してはならないという意味だったのである。物事はなるようにしかならず、執着して思い煩っていては、自由になるどころか、前に進むことなど無理だと諭したのだ。

生かされている人生に感謝
 遊亀は43歳のとき、禅の修行者である小倉鉄樹と結婚する。昭和19年に夫を亡くし、結婚生活は6年と短いものだったが、夫からは様々なものを教えてもらい、恵んでもらったと語っている。その影響からだろうか、煩悩めいたものから次第に開放され、自由な境地で絵画制作にも専念できるようになる。それからの50代はまさに画家としての基礎体力作り、精進に費やした日々であり、「老いてこそ輝くもの。60代までは修行。70代でデビュー。百歳現役」という名言を残す。彼女自身、人生で最も充実したのは70歳代であると回想しているし、その勢いは80代になっても衰えることを知らなかった。70歳代で「径」「舞妓」「姉妹」などの代表作を発表、80代で「天武天皇」などの歴史肖像画の代表作が制作された。85歳のときには、上村松園に次いで女性画家としては二人目となる文化勲章を受章。情熱があれば年齢の壁など乗り越えられることを教えてくれる。

 90歳半ばで遊亀は体調を崩し、それから絵筆を握ることはなかった。居間に座って庭を眺める日々。ある日、遊亀がポツリとつぶやく。「梅は何ひとつ怠けないで、一生懸命生きている。私も怠けていてはいけない」と、101歳にして再び絵筆を握ったのである。普通に生きることの難しさをよく知っているからこそ、普通に生きることの美しさや素晴らしさが描けたのであろう。そして熱心な仏教徒らしく「物みな仏」であり、自分は生かされているという謙虚な気持ちを片時も忘れなかった。

PROFILE
女流日本画家。1895年滋賀県生まれ。日本美術院の画家安田靱彦に師事。70代で「径」「舞妓」「姉妹」などの代表作を発表、80代で「天武天皇」などの歴史肖像画の代表作を制作。上村松園に次いで女性画家としては二人目となる文化勲章を受章した。

長寿のヒケツ
食事
甘味や菓子類に目がなかった。そのせいで晩年は血糖値が高くなり、食事制限をするようになってから元気がなくなり、絵を描かなくなる。主治医である日野原重明氏から「それほど気にしなくてもよい」といわれ、再び甘いものを口にするようになってから再び気力と元気が戻り、絵筆をとるようになった。
健康法
体調を崩した際には、料理研究家である辰巳芳子直伝の「玄米スープ」「シイタケスープ」を作ってもらい健康の維持に努めた。