マリヤ・スクウォドフスカ=キューリ夫人(1867~1934)66歳

 今からちょうど110年前の1898年、ウランよりもはるかに強い放射性を持つ元素「ラジウム」が発見された。これによりラジウムは1910年代から50年代にかけ、がん治療の領域で、あるいは放射線医学の領域で,「ラジウム治療学」という大きな分野を形づくる。今でこそこの分野は「コバルト60」にとってかわったものの、現在の密封小線源治療および超高圧放射線治療の先祖といっていい。当時は「世紀の発見」と騒がれたラジウム、これを発見したのはパリ大学の物理学者ピエール・キューリとその夫人、マリー・キューリである。これにより夫婦は1903年、ノーベル物理学賞を受賞した。

ノーベル賞を2度受賞する
 女性の化学者・物理学者の草分けとして数々の功績を残したマリー・キューリは、1867年、ポーランドのワルシャワで生まれた。父親は中学の理科教授。幼いときに姉をチフスで、母を肺結核で亡くしている。24歳のとき、物理学と数学を学ぶためにパリ大学理学部に入学。当時の生活は極度の貧困と孤独にあったが、勉学に没頭した甲斐があり、物理学の学士試験にトップ合格する。27歳のときパリ物理化学学校の実験主任をしていたピエールと出会い、翌年に結婚。29歳のときには長女イレーヌ(後にノーベル化学賞を受賞)が誕生。育児、家事をこなしつつ、夫とともに大量のピッチブレンド(瀝青ウラン鉱)の残渣からラジウムとポロニウムを精製・発見し、ノーベル賞受賞へと結実する。

 突然の不幸が襲ったのは1906年。夫ピエールが交通事故で亡くなってしまうのである。彼女は死んだ夫のあとを継いでパリ大学ラジウム研究所キュリー実験室長となり、パリ大学最初の女性教授に就任。1911年には金属ラジウムの分離に成功、最初のノーベル賞受賞に次いで、再びノーベル化学賞を単独で受賞。「この栄誉は、夫ピエールとの共同研究によりその土台が築かれたもので、私へのおほめの言葉は、そのままピエールへの賛辞であると考えます」とピエールに功績を譲り、参列した人々を感激させている。

研究によって病魔に犯される
 晩年のキューリ夫人は病魔との闘いに終始した。それが顕著になったのは1930年に入ってからの、60歳あたりからである。長年にわたって彼女を苦しめ、寿命を奪ったもの、それは皮肉なことに、長年にわたり自ら手がけたラジウムだった。なにしろ30年以上にわたってラジウムを吸い、ラジウムの放射物を浴びていたのである。彼女の手にはラジウムによるやけどの痕跡が痛々しく残り、堅くなってタコができていた。また第一次世界大戦のさなかには、ラジウム療法による救護活動を組織し、自ら危険なレントゲン装置の放射に身を挺している。そのため慢性の疲労や肩のリューマチ、刺すような痛みをともなった耳鳴りに悩まされ続け、さらには白内障の一歩手前まで視力が弱まっていたのである。一説には彼女が生涯にわたって浴びた放射線量は一般人の6億倍ともいわれている。死期を悟ったのだろうか、彼女はよく自分の死について語ることがあったという。「私はもうこの先、長く生きられないことははっきりしている」「私が死んだ後のラジウム研究所の運命が気がかりです」と。

 66歳のとき、レントゲン写真によって胆のうに大きな結石があることが判明する。普通ならば手術をしなければならないのだがそれを拒否し、養生と摂生に努めた。医学に通じているはずなのに「入院していたら研究ができなくなる」「お金を払うにも払いようがないから」などと理由をつけては医師の診察と入院をかたくなに拒んだのである。「自分は健康である」と、スケート、スキーに興じたり、旅行も楽しんだが、それは無駄な抵抗だった。日増しに体力が衰えていくなか、元気のある日は研究所へ、ぐったりして弱っているときは家で横になりつつ、著作に没頭するなどして「死」を忘れようと努めた。

最期の言葉は「もう構わないでください」
 発熱の原因が重い肺結核によるもの(これは誤診だった)と診断され、結核療養所での入院治療を至急要すると判断される。次女の工一ブ・キュリーにつきそわれて行った南仏サンセルモズの療養所での正確なX線再検査と血液検査の結果、発熱を伴う重症の再生不良性貧血(長年受けた放射線の影響と考えられる)が確認されたものの、容態は悪化するばかりである。母親がベッドで狂暴にのた打ち回る姿、うわごとを、エーブは見守り聞き入るしかなかった。そして1934年7月3日、臨終の苦しみのなか「私はもう何もいえない」「これはラジウムで作ったのですか、それともメゾトリウムで作ったのですか」「嫌です、もう構わないでください」を最期の言葉として残し、それから16時間後の7月4日に息をひきとった。享年67歳。亡骸はパリ郊外のソーに埋葬されたが、1995年、夫のピエールの遺体と共にパリのパンテオンに改葬されている。またパンテオンの近くにある国立科学学校で当時彼女が活動した研究棟は現在キュリー夫妻博物館となっている。

参考文献・出典
「キューリ夫人伝」 河口篤・河盛好蔵・他訳 白水社(1968年)





 ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749~1832)82歳

 ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ。詩人、劇作家、小説家、科学者の顔をもつ多才な人物である。彼の作品は評論や書簡もふくめて同時代の作家たちや、彼が主導的な役割をつとめた文学運動にきわめて大きな影響をあたえた。19世紀のイギリスの文芸批評家マシュー・アーノルドはこう彼を称えている。「ゲーテはドイツ文学界の大御所というだけでなく、世界文学のもっとも多才な巨匠のひとりであった」と。
          
 ゲーテは、1749年8月28日、帝室顧問官の肩書きをもつ裕福な市民の息子として、フランクフルト・アム・マインに生まれた。65~68年にかけて、ライプツィヒ大学で法律学を学ぶが、そのころから文学や絵画に関心を抱き、創作を開始。戯曲には、1幕物の韻文喜劇「恋人のむら気」や韻文悲劇「同罪者」がある。法律以外にも音楽や芸術学、解剖学、化学なども学び様々な知識と教養を蓄積。以来、精力的に数々の作品を発表する。 

74歳にして19歳の娘に求愛する
70歳代に入ってもその創作意欲、好奇心は衰えることがなかった。この時期はゲーテの生涯における多作の時代といってもよく、大作を次々と完成させている。著作の中で有名なのは、「親和力」「ウィルヘルム・マイスターの遍歴時代」、イタリアへの旅の報告記「イタリア紀行」、自伝「詩と真実」、抒情詩集「西東詩集」、それに劇詩「ファウスト(第2部)」(死後の1832年に出版)などである。同時に彗星観測に熱中し、自ら評議員をつとめるイェーナ大学に働きかけて天文台を作らせている。さらにパナマ運河の計画が発表されると、資料を取り寄せて検討を加えたり、パリ学士院で繰り広げられていた科学論争を注意深く追いかけてもいた。

 人びとを驚かせたのは「老いらくの恋」である。74歳のとき、湯治町であるマリーエンバートで19歳の娘を見初めて求愛に通う。母親は自分への求愛かと勘違い、だが求愛相手が自分の娘であることを知り丁重に断る。彼は落胆して帰る馬車のなかで、ありあわせの紙に長詩「マリーエンバートの悲恋」を一気に書き上げている。彼は最愛の妻や友人を亡くすと、その喪失感を埋める術を創作、そして恋に求めていたのである。彼の短詩にこんな作がある。「気力をなくすと一切を失う それなら生まれてこぬがいい」と。

偉才の死へのカウントダウン
82歳となった1832年3月14日、彼はいつものように馬車で散歩に出かけた。これが最後の散歩となった。翌15日にはパヴロヴナ大公妃が訪問。いくらか風邪ぎみだったので早めに床についたが、悪寒がし、熱も出て苦しく咳き込む夜を過ごす。16日には50年間にわたって書き続けた日記に「一日中、体の不調のため、ベッドで過ごした」と短くしたためて、この日で日記も終わりとなった。17日には親友のフンボルトに口述した手紙を出している。生涯にわたって1万5000通もの手紙を出したといわれる、これが最後の手紙となったのである。

 19日の晩から容態は急変する。体中が冷え切って痛みも激しく、ベッドに寝ながらもひっきりなしに寝返りを打ち、苦しさを紛らわそうとした。22日の午前10時ごろ、最後の食事となった冷たい鶏肉を少々口にする。それから亡き息子の嫁であるオッティーリアに支えられ、安楽椅子に崩れるように体をあずけた。そして「二番目のよろい戸を開けてくれないか、もっと光が差し込むように」の言葉を最期に、昏睡状態に陥る。息を引き取ったのはそれから1時間ほど後である。

親友シラーとともに眠る
 その日のうちに画家のブレラーが彼の死に顔をスケッチする。ブレラーはイタリアで客死した息子アウグストの死の直前の顔を描いた人物である。長年、ゲーテの片腕となって支えたエッカーマンはそのときの印象を、気品ある文章でこう書いている。「ゲーテは眠っている人のように、仰向けに身を伸ばして休んでいた。崇高で気高い彼の顔は、深い平和と安定感の漂う表情をしていた。力強い額はまだ何かを考え続けているように見えた。白いシーツに包まれた体の周りには、大きな氷の塊が置かれていた。フリードリヒがシーツを開いてくれた。私はその体の神々しいばかりの美しさに驚いた。胸は見るからに力にあふれ、広く丸く盛り上がっていた。体中どこにも太りすぎも見られず、やせすぎも見あたらず、衰えのかけらもなかった。完全な人間が偉大な美しさで私の目の前に横たわっていた。私はそれに見惚れ、この肉体から不滅の精神が消え去ってしまったことを、しばしの間忘れた。私は目をそらせ、こらえていた涙をあふれるに任せた」。

 彼の葬儀は3月26日の午後5時に行われ、棺はワイマル大公の霊廟に収められた。その棺の横にはともに心を通じ合い、苦しみを分かちあった親友シラーの棺が置かれていた。

参考資料・出典
マイクロソフトエンカルタ 百科事典2000
「ゲーテさんこんばんは」 池内紀著 集英社(2001年)
「新装 世界の伝記14 ゲーテ」 植田敏郎著 ぎょうせい(昭和56年)