チンギス・ハーン(1162?~1227)66歳?

英雄の死と恐るべき遺言
 モンゴル帝国の創設者、チンギス・ハーン。彼は1167年、モンゴル高原北東部をながれるオノン川上流の地で生まれた。若くしてモンゴル部族の一指導者となり、モンゴル内の対抗勢力をおさえて部族長の地位をえるなど、短期間に軍事的才能を発揮、1206年にはモンゴル高原の支配者となりモンゴルを統一する。1219年には中央アジアや南部ロシアを征服し、ますます勢いに乗るかと思われたが、1227年8月18日、西夏を攻略している時期に陣中で病死する。推定66歳だった。

 チンギス・ハーンの具合は2年ほど前から悪化していた。原因は狩猟の際の落馬だといわれている。体調が芳しくないにもかかわらず、連戦につぐ連戦を繰り返していたのである。病死する数週間前には体力は限界にきていた。8月の暑さに負けて食欲がわかず、瓜やブドウばかり食べたせいか、腸カタル、あるいは腸チフスを患ったとされているのだ。もともと弱りきっていた体は急速に衰え、死期が近いことを彼自身も悟るにいたる。

 臨終の床で、駆けつけた息子たちや重臣に「私が死亡したら深く警戒して喪を秘密にすること。西夏国王とその一族及び寧夏城の住民は全員殺害するよう」遺言する。陣中で病没したあと、白包車(ゲル)に乗せられた遺体は諸王やモンゴル貴族の首領の手で、はるばるゴルバン・ゴル(3つの川)まで運ばれ、途中で出合った人は全て殺されたという。彼らの信仰によれば、こうして死亡した人々は、すべて死後の世界の家来とされるらしい。

葬儀の様子と埋葬場所
 チンギス・ハーンがどこにどのように埋葬されたのか。それは謎とされている。モンゴルには「帝王を埋葬した場所は草が生えてあとが残らず、塚や墓を立てない」という習慣があるからだそうだ。しかしドーソンの『蒙古史』には葬儀の模様についてこう書かれている。「遺体はハーンの故郷のオルドスに到着したときに初めて喪が公にされた。この訃報を聞いて公主ならびに諸将は帝国の各地から駆けつけ、最も遠くから駆けつけた者は3か月かかって到着した」と。 葬儀が終わったあと遺体は、ゴルバン・ゴルの源にある山脈の一峯に埋葬された。ここに埋葬されたのは、かつて同地方に狩に出かけたときに、その美しさにみせられて、「私が死んだらここに葬ってほしい」と語ったからだという。

 また、14世紀に書かれたマンデヴィルの『東洋旅行記』にも、その死の模様が次のように記されている。「皇帝が他界すると、人々は天幕の真ん中においた椅子に遺体を据えて、その前に白布におおわれたテーブルをおき、パンや生肉や馬の乳を並べた。それから天幕の近くに墓穴を掘って、遺体と一緒に天幕も馬も金銀財宝も一緒に埋葬した。なぜなら彼らは死後でもこの世と同じように、飲み食いするからである。 また死者は夜間こっそりと埋めて、その上に雑草を生い茂らせることもある。これは彼の知人たちが死者のことを思い出さないようにするためで、そうすれば、死者はあの世で現在よりももっと偉大な人物になると信じられているからである」と。

英雄の墓は神聖にして侵すべからず
偉大なる支配者の墓が不明のままでは、後世の人びとは追悼もできないし、崇拝心をも失ってしまう。そこで考えられたのが祖先を記念する「陵園」であり「八白室」である。「八白室」は蒙古包の形をした幕舎8つで、それぞれチンギス・ハーンとその親族など8人の「棺」だけが祭られている。だが本来の陵墓は八白室の南遷とともに完全に忘れ去られてしまい、その位置は長らく世界史上の謎とされてきた。 現在の内モンゴル自治区イクチャオ盟のイキンホロ旗にある陵は1954年に再建されたもので、本殿は蒙古式の様式の本堂が3つとそれを結ぶ廊屋で構成されており、そこにはハーンが生前使用した品物が、博物館のように展示されている。

 冷戦が終結した1990年代以降、モンゴルへの往来が容易になったことから、各国の調査隊はチンギス・ハーンの墓探しのための調査を実施してきた。しかしモンゴルでは、民族の英雄であるチンギス・ハーンは神聖視されており、その墓が外国人に発掘されることに不満を持つ人が多いという。今から4年前の2004年、国学院大学や新潟大学などから編成された日本の調査隊は、モンゴルの首都ウランバートルから東へ250キロのヘルレン川(ケルレン川)沿いの草原地帯にあるチンギス・ハーンのオルド跡とみられるアウラガ遺跡の調査を行い、この地が13世紀にチンギス・ハーンの霊廟として用いられていたことを明らかにする。そして調査隊はチンギス・ハーンの墳墓もこの近くにある可能性が高いと報告したが、モンゴル人の感情に配慮し、墓の捜索や発掘は行わない声明を出した。英雄の墓の所在は永遠に謎のままとなりそうだ。

参考資料・出典
「新装 世界の伝記21 ジンギスカン」 吉田比砂子著 ぎょうせい(昭和55年)
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「中国歴代の皇帝陵」 羅哲文著 杉山市平訳 徳間書店(1989年)


  ブルース・リー(1940~1973)32歳


死後のスーパースター
 昭和四十八年(一九七三)の十二月二十二日、衝撃的な映画が上映された。「燃えよドラゴン」である。当時、国内で上映される香港映画といえば、そのほとんどが評価されることが少なく、短期間のうちに上映が打ち切りとなるのが通例だったが、この作品は違っていた。これまでの単なる「空手アクション」と一味も二味も違う「カンフーアクション」は、口コミでその面白さが国内中に伝わり、年を越して正月映画に抜擢され、驚くべき興行収入をあげるまでになる。この「カンフー映画」の立役者がブルース・リーである。
  
 大人から子どもまでブルース・リーに熱狂した。だが、このときすでに彼はこの世の人ではなかった。三十二歳という若さで、国内上映された五ヶ月前に亡くなっていたのだ。

 ブルース・リー(李小龍・リー・シャオロン、本名・李振藩 レイ・ジャンファン)は、アメリカのサンフランシスコで一九四〇年に生まれた。父親は広東演劇の役者、李海泉。母親はドイツ人の血を引くグレース。生後三ヶ月で映画『金門女』(中国)に出演。その後香港に帰国、八歳頃から子役として数多くの映画に出演する。また幼いときから中国武術を身につけ、その腕を磨くつもりで少年の頃は喧嘩に明け暮れた。十八歳のときに単身渡米し、シアトルに移り住む。新聞配達のアルバイトをして職業訓練学校シアトル・セントラル・カレッジへ。同校で高校卒業資格を得て、ワシントン大学哲学科に進学。勉学に励むかたわら、「振藩國術館」を開いて中国武術の指導を始める。高校で哲学の講師もしていた。その頃、同じ大学の医学生で、道場の生徒だったリンダ・エメリーと結婚。その後、大学を中退し、道場経営に専念。截拳道(ジークンドー)を創始する。

 彼のカンフーテクニックがテレビプロデューサーの目に止まり、テレビシリーズ『グリーン・ホーネット』の準主役に抜擢されたのは一九六六年。日系人のカトー役を演じ、派手なアクションで人気を博す。これをきっかけに、ロサンゼルスでハリウッドの俳優やプロデューサーを顧客に武術の個人指導をするようになり、七十年には、レイモンド・チョウが設立したばかりのゴールデン・ハーベスト社と映画出演の契約を交わす。

 翌七十一年に初主演映画『ドラゴン危機一発』が公開され、香港の歴代興行記録を塗り替える大ヒットに。主演第二作の『ドラゴン怒りの鉄拳』(七十二年)では主演と武術指導を担当。三作目の『ドラゴンへの道』(同年)では、自ら「コンコルド・プロダクション」を設立し、製作・監督・脚本・主演の四役を兼務。この三作によりリーは香港でトップスターの地位を確立、ゴールデン・ハーベストは興行収入で香港最大の映画会社となる。

 米国と香港の合作映画『燃えよドラゴン』(ロバート・クローズ監督)の撮影が始まったのは七十三年の一月だった。これまでハリウッド映画への主演がかなわなかったリーはこの一作に世界進出の夢を賭けた。エキストラへの武術指導に始まり、脚本や撮影にも自分の意見を反映させ、映画は五月に完成する。そして彼の最期の日となった七月二十日、蓄積していた肉体的・精神的疲労を解消しようと、彼は愛人と噂されていた女優ベティ・ティンペイの自宅(香港)でひとときを過ごす。だがこのとき頭痛を訴え、鎮痛剤を飲んでベッドに横になったものの、そのまま昏睡状態に陥る。彼はそのままクィーン・エリザベス病院へ搬送されたが、死亡が確認。公式な死因は脳浮腫(のうふしゅ)である。司法解剖の結果、微量の大麻が検出されたほか、脳が極度に肥大化していた事が判明した。

 彼の脳浮腫(脳腫瘍という説もある)が原因と思われる頭痛は、七十二年の『ドラゴンへの道』、『死亡遊戯』(七十八年に公開)の撮影中にも何度となくあったらしい。『燃えよドラゴン』の撮影を終えた五月にも同様の症状を訴えていた。アフレコ作業中に意識を失い、昏倒したのである。入院先による精密検査では異常は発見されなかったというのだが。ともあれ、死因は背中の古傷に長年使っていた痛み止め薬と、その晩に服用した頭痛薬の副作用ではないかとの説が一般的である。

 葬儀は、香港とシアトルで行われた。香港では数万人のファンが葬儀に押し寄せ、シアトルの葬儀にはリーの弟子だったジェームズ・コバーンやスティーブ・マックイーンも参列。遺体はシアトルダウンタウン近くのレイクビュー墓地に埋葬された。

 死亡後にその名を世界に知らしめたスーパースターに、世界のファンの間には彼の死を悼むとともに「彼の死には怪しい点がある」との噂が流れる。ハリウッド映画に巣食う「白人至上主義者たち」による暗殺説。新参者のリーを嫉んでの「伝統的中国武術界」による暗殺説。「香港マフィア」による暗殺説。他社に移籍する決意をしたリーを必死に引きとめたものの、それを断ったために「ゴールデン・ハーベスト社」からの復讐などだ。

 また、リーの遺児であるブランドン・リーも父親の後を追うように、映画「クロウ」(九十三年作品。撮影中に誤って拳銃から実弾が発射され、腹部に命中して絶命。享年二十八歳。父のリーと同じ墓地に眠っている)で他界したことから、「リー没後二十年目の呪い、祟り」など、都市伝説的な噂が流された。

参考資料・出典
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「スクリーン・デッラクス ブルース・リー伝説」 久保田明・文 近代映画社(二〇〇二年)