八戸自由大学第6回講座より抜粋

講座名
 ハレー彗星に願いを  野の天文学者 曽祖父前原寅吉を語る


講師・前原俊彦氏(マエバラ代表取締役社長)
 
前原俊彦氏プロフィール(1958年生まれ。八戸市出身。八戸高校、東京経済大学卒。東京の宝飾店に勤務。3年間修業した後、帰八し家業の(株)マエバラに入社。趣味のカメラを生かし「まちの駅はちのへ」HP写真を担当。

講座抜粋

昨年に放送され評判になったNHKの人気番組「タイムスクープハンター」特番の録画を上映。これは前原寅吉(マエバラ創業者)のいる明治時代の八戸町(当時)に、歴史調査員の沢嶋雄一(要 潤)がタイムワープするというもの。沢嶋が前原時計店の前原寅吉に出会い、ハレー彗星の地球追突騒ぎを体験する。

明治時代のアマチュア天文家 前原寅吉とハレー彗星
 寅吉は三戸郡八戸町生まれ。現在、八戸市番町にある宝飾・時計販売店マエバラの創業者だ。当時、店を営む傍ら、望遠鏡で天体観測を続けていた。太陽面を通過するハレー彗星を観測したのは38歳の時。当時の国立天文台など公的な専門機関が技術の未熟さから観測に失敗する中、「太陽面観望用眼鏡」を発明していた寅吉は、ほぼ正確に彗星をとらえた。

 また、寅吉は天文の研究成果を冷害に苦しむ八戸の農家のために生かしたいと尽力。やませによる凶作を天文現象に関連付けて解明しようと、冷害克服の鍵を模索した。
 観測成功から約4年後に失明したが、決して挫折することなく、78歳で生涯を閉じるまで研究を続けた。

 1910年(明治43年)。このとき、世界中はハレー彗星の話題で持ちきりだった。それは、計算された軌道から、ハレー彗星の尾が地球にかかることがわかったからである。いまでこそ彗星について研究が進み、その成分もわかりつつあるが、この時代ではまだ彗星は謎の天体であり、そんな話しが伝わると、巷にはいろいろな噂が広がった。

 たとえば「彗星がぶつかってきて地球がくだけ散ってしまう」とか、「地球の空気が彗星の尾に吹き飛ばされて、空気がなくなってしまう」とか「彗星の尾の成分に含まれる毒ガスで、人間が死んでしまう」とか・・・。世界中でガスマスクや予防薬が売られたり、地下室や酸素ボンベを用意する家もあったり、中には自殺してしまう人もいたそうでである。

 そんな噂が日本にも広がり、当時の新聞には、ハレー彗星の記事がたくさん賑わせるようになった。しかし、世間の噂に流されず、自分で観測し研究し、ハレー彗星の日面通過を観測した人物が前原寅吉である。寅吉は、八戸の子供たちに自分の望遠鏡を使って星を見せては、いろいろな宇宙の不思議を子供たちに説いていた。そんな寅吉の元にも、ハレー彗星の噂を聞きつけた子供たちが毎日のようにやってくる。寅吉は彗星のことを熱心に話しながら、自分達が死んでしまうようなことは無いことを子供たちに教えた。

 1910年5月19日。寅吉は、家の物干台に倍率の違う3台の望遠鏡を用意する。レンズの前には寅吉が考えた「太陽観測用眼鏡」を置き、4日前から太陽黒点の位置を観測し、太陽面の様子をしっかりとおぼえていた寅吉は、じっと望遠鏡の中の太陽を見つめる。午前11時20分。太陽の一部の色がだんだんと青い色に変化しはじめる。その色は少しずつ移動していき、お昼を過ぎた午後12時17分には、元どおりの太陽に戻っていった。

 この様子を捕らえることができたのは、世界中を探しても寅吉だけだった。数ある天文台がこぞってこの様子を観測していたのに、寅吉だけが観測できたのはなぜか。寅吉が考えた「太陽観測用眼鏡」が成功したのか、その理由は定かではない。

 当時、世界でただ一人、太陽面を通過するハレー彗星の観測に成功してから昨年はちょうど100年にあたる。「明治時代の八戸にも宇宙へ目を向けた先駆者がいたことを紹介したい」と、節目の年に八戸市内の有志らが〝野の天文学者〟の偉大な功績を広める催しを企画。同市内で記念イベントを開催。100周年記念イベントは、市公民館で「講演と演劇の夕べ」と題して開催。同市の演劇集団ごめ企画(柾谷伸夫代表)が主催し、寅吉のひ孫に当たる現マエバラ社長の前原俊彦さんも協力した。イベントでは柾谷さんが「前原寅吉の夢『我が内なるラピュータ』」と題して一人芝居を展開、寅吉の生涯と彼の世界を表現。これまでも寅吉を演じてきた柾谷さんは「寅吉に触れることで、子どもたちが夢を持つきっかけになってほしい」と願っている。このほか、寅吉の研究に取り組む東京経済大の色川大吉名誉教授が「前原寅吉と宮沢賢治の銀河世界」をテーマに講演した。
 

 前原さんは「寅吉は明治時代に『日本』ではなく宇宙的な目線で物事をとらえていた。節目の年に多くの人に寅吉を知ってほしい」と話し、講演の合間に趣味のピアノで数曲を披露した。