オヤジ、また一緒に暮らそうぜ


 親父に手紙を書くのは、今度で二度目だよな。もう、十年経つんだ。早いよな、人生ってやつは。

 覚えてるか、最初の手紙(1994年2月号)。俺はまだ中学のワルガキで、アンタに反抗してばかりいた。高校に入っても暴走族の真似して、アンタとよく殴り合いのケンカしたよな。そんな俺たちに愛想をつかしてお袋は、ボケた婆ちゃんと、障害者の姉貴を連れて、お袋の田舎である北海道に帰っちまった。

 残された俺とアンタは、ただ呆然。「勝手にしやがれ」と息巻いたものの、そのうち戻ってきてくれるだろうと願っていたのだが、お袋の決心は固かった。二年目にして離婚が成立。アンタの酒量はますます増えた。

 俺は自立するしかなかった。酒乱のようなアンタにも、パートで婆ちゃんと姉貴を食わせているお袋にも頼れないからな。バイトしながら高校を卒業し、ホストクラブで働きながら大学を卒業した。卒業式には我ながら男泣きしたよ。「お前、よく頑張ったな。偉いぞ」ってな。お袋と姉貴からの祝の電話にも泣かされた。

 俺もお袋も変わった。なのにアンタは何も変わらなかった。以前と同じく、酔っ払って帰っちゃゲロ吐くわ、わめくわ、泣くわ、物を壊すわ。こんな男じゃ、お袋じゃなくとも愛想尽かすわな。言動パターンが形状記憶化されちまっている。変われない人間の哀れさをアンタに見た。

 大学を卒業して間もなく、お袋たちが暮らす北海道に行くと言ったとき、アンタはただうつむいていた。アンタ一人を残すのは心残りだし心配もあったが、俺はお袋たちとの生活の道を選んだ。元看護師のお袋が勤める福祉施設では、若手の職員が不足していたし、大学で学んだ福祉関係の知識も活かせると考えたんだ。

 北海道での生活を選んだのは間違いなかった。婆ちゃんも姉貴も喜んでくれた。介護を必要とする高齢者や障害者の人たち、施設の人たちからも頼りにされるようになった。手が付けられなかったクソガキでも、人から喜ばれる、頼りにされるような人間に生まれ変われる事を知った。

 最近の俺とお袋の口癖は「親父を北海道に呼び寄せよう」だ。俺もお袋も何人もの問題ある人々を見てきたせいか、なぜアンタが酒に溺れ、乱れ、だらしなくなったのか、なんとなく理解できるようになった。

 俺たち家族のためだったんだよな。家族を食わすために毎日、這いつくばって、悔しい思いをして、その憂さを晴らすための酒、それがいつしか度を越してしまった。悪かったよ、俺たちのために長い間、辛い思いをさせてしまって。改めてお願いするよ。北海道に来ないか。もう一度、家族みんなで生まれ変わろうぜ。(2011年5月1日)

親父 金属加工工場経営:55歳
息子 福祉施設職員:25歳




新しい息子を可愛がってやってくれ


 親父、元気かい。もうすぐ春がやってくるな。我が家にも春がやってくる。舎弟を正式に養子として迎え入れることになった。めでたい事だ。

 小学校の低学年までは俺のこと、親父はよく可愛がってくれた。だが、中学に入って間もなく俺の万引きが原因で、それからは説教と暴力の毎日。俺も暴力で対抗したから、家の中はボロボロ。お袋も一時は実家に帰ったまま戻らなかった。親父との共同生活なんてまっぴらご免だ。それに水道工事会社の後継ぎも断った。俺は中学を卒業すると、夜間高校に通いながら東京にある水道工事の会社に世話になった。

 それから20年。会社の社長の世話で夜間の大学まで通わせてもらい、俺の腕前は親父に引けを取らないくらいまで上達したと思う。責任のある仕事も任せられるようになった。そんなときだ、弟が入社してきたのは。俺と同じく中卒。だけどこいつがトロい。何やらせてもトロい。何度も怒鳴ったし、ときには殴った。そのたびに涙を浮かべながら、「スンマセン、スンマセン」と謝るばかりだ。「辞めちまえ」と言っても辞めない。しかも俺のこと「先輩、兄貴」と頼るから、仕方ない、俺も「舎弟」として面倒をみることになった。

 舎弟はまだ若いのに苦労してきた。奴が小学校のときに親父さん、借金が原因で自殺。それから間もなくお袋さんも過労で亡くなった。施設で育てられたけど、この施設ばかりか学校でもイジメの連続だったという。病気がちの奴は耐えるしかなかった。それが体に染み付いたまま成長した。

 20年ぶりに実家に里帰りしたとき、舎弟を連れていった。俺だけじゃ気まずいからな。舎弟の奴、まるで自分の家に帰ったようなはしゃぎようだった。親父もお袋も気に入ってくれて、俺は大いに助かった。帰り際だった、舎弟は古ぼけた眼鏡を取り出し、親父に掛けてくれるよう頼んだ。そして一緒に肩を組んでの記念写真。実は、眼鏡を掛けた親父の顔が、舎弟の親父さんにそっくりだったんだ。奴は涙を流しながら言った。「親父はまだ生きている。そう思えるんですよ。この写真を見ていると」。

 この話を聞いた親父、東京まで出向いて、舎弟を引き取らせてくれと、ウチの社長に直談判だ。これには俺も舎弟もタマげた。しかし事情を汲んでくれた社長は、舎弟を親父に託してくれた。後継者ができたせいか、親父は前にも増して仕事に精を出しているというし、俺とは違い、親父の教え方が上手いのか、舎弟も仕事のコツを覚えて腕前をあげているという。そしてお袋が嫉妬を覚えるくらい、親父と舎弟はベッタリだとか。

 良い事だぜ。奴がこれまで苦労してきた分、甘やかせてやってくれ。そして親父も本当の息子だと思って甘えろ。俺はそれで満足だ。幸せだ。(2011年5月8日)

親父 57歳:自営業
息子 27歳:会社員




 その考え方って、あまりにも古くて硬いよ


 「お前たち、恥かしいと思わないのか。戦後間もない、偉そうな進駐軍と飢えた子供たちの関係みたいだな。なんとまあ、情けない」。

 バレンタインデーの前日、私は十数人にプレゼントする予定の義理チョコをせっせと包み、弟は「だいたい10人は堅いな」と、もらえる義理チョコの予想をし、お母さんと三人で盛り上がっていました。そこに突然、隣の部屋で読書をしていたお父さんが乱入。バカ、アホの連発に、私たち三人は「とうとう狂ったか」と思ったものでした。

 代々150年以上も続くお寺であり、住職の家族だから、私たち三人はクリスマスやバレンタインデーは、他の家庭のようにハシャゲませんでした。だってお父さん、すぐに怒るから。なるべく静かに、ひっそりと過ごしてきたものです。だけどこの日はつい三人の盛り上がりが、お父さんの逆鱗に触れてしまったようで。

 バカ、アホの連発に、ついに私たちもキレて、「なんなのよ、その進駐軍と飢えた子供たちの関係って」と、詰め寄りました。お父さん曰く、終戦後にアメリカを中心とした占領軍が、日本の飢えた子供たちに、親しみを持ってもらうため、チョコレートやらガム、キャラメルをバラまいたのだとか。だけどお父さんに言わせると、それは慈善や慈悲とはほど遠い、勝者の敗者に対する優越感に過ぎない行為だとか。

 それとバレンタインデーと、どういう関係があるの。チョー分かんないよと言ったら、またまたバカとアホの連発。つまり、義理チョコばかり送る私には「可愛そうだからクレてやるよ」の進駐軍精神が、義理チョコ専門にもらいたがる弟には「恵んでくだせえ」という、さもしい根性が染み付いているんだと。それを聞いて、私たち三人は顔を見合わせて思ったものです。「この親父、ズレてる。チョーズレまくっている」と。

 義理チョコあげる方も、もらう方も、どこが悪いっていうのよ。義理チョコって日本独特の贈答慣習で、博愛にも通じるって、担当の先生も評価していたよ。孤独な人が義理でも同情でもいいからチョコをプレゼントしてもらって、悪い気分になる? 元気になるんじゃない? 日本中にその輪が広がれば、日本の明日は明るいし、景気だってちょっとは良くなるかもしれないじゃん。そう反論すると「義理チョコを買うお金があるなら、世界中の飢えや病気に泣いている人々にそのお金を寄付してやんなさい。それが本当の功徳、博愛だ」って、こうだもんね。

 すべてが悪いとは言わないよ。良い事も言いますよ、お父さんは。だけどもうちょっと柔らかい心と頭になって欲しいな。血圧も心配だし。(2011年5月15日)

親父 50歳:住職
娘 17歳:高校2年




 いつの日か、素敵な男性と巡り合う日まで


 お父さん、先日はご免なさい。ついカっとなり、言い過ぎました。今もまだ自己嫌悪に陥っています。

 人事異動で新しい部署に配属され、慣れない仕事に悪戦苦闘。しかもミスが重なり、「ミスお局」という、的を得た渾名まで頂戴し、辞表を提出しようかと悩んでいた矢先でした。

 おまけに「結婚なんか一生しない。キャリアを重ねてシングルで通す」。こう宣言していた同僚が、実は結婚相談所に足しげく通い、しっかりと伴侶を獲得し、めでたく寿退社したのにも、なにか裏切られたような、出し抜かれたような気がして、ブルーな気分にさせられていたのです。そんなときに「お前もそろそろ結婚したらどうなんだ」という、お父さんの一言に、つい切れてしまって。

 私も人並みに結婚願望はあります。でも、現状を考えると難しいよね。我が家は2LDKの狭いマンション。旦那様が一緒に住んでくれるとは思えません。もし仮に住んでくれるとしても、お父さん、なかなかの頑固者だから、上手くやっていけるかどうかとても不安です。博愛に満ちた人物か、でなければよほど鈍感な人物でなければ、共同生活は無理。それに私が旦那様のもとへ嫁いだら、どうするつもり? 料理どころか、洗濯だって満足にできないのに。そんなこと分かっていながら、あんなこと言うんだもの。

 私が行き遅れた原因は、私が作ったのかもしれません。小学校のときにお母さんが病気で亡くなり、それからは忙しい警察の仕事をしながら一人娘の私を育ててくれました。その間、何度か再婚の話もあったけど、ことごとく私が反対。そのため、今日まで独身暮らし。再婚話に私が賛成していたら、今ごろは孫と一緒に散歩なんか楽しんでいたかも。そう考えると、自分の身勝手さに腹立ち、苛立ち、情けなくなってきます。本当にご免ね、お父さん。

 だけど、結婚がすべてではありませんからね。お父さんがよく言うように「縁が大切」。これまで何人もの男性を好きになったし、愛したけど、一度も実らなかった。結局、縁が薄かったと思うの。縁があって、そこから二人でその縁を太く、強くしていくものではないのか、最近、そう考えるようになりました。だから今はいないけど、もしかしたらこの先、そんな縁のある男性と巡り合わないとも限らないから、長い目で見てて。

 行き遅れの娘との二人暮しは、なにかと気が重いし、鬱陶しくもあるでしょうけど、我慢してね。これからは女手ならぬ娘手ひとつで面倒を見させてもらいますから。介護が必要になっても安心して。決して他人様には任せません。でもなるべくなら煙草とお酒は控え目にね。(2011年5月22日)

父 63歳:守衛
娘 37歳:印刷会社


 生きるって厳しいけど、素晴らしいな

 父さん、人は誰でも様々な苦しみ、悲しみ、悩みを抱えて生きているんだね。そしてなんとかしようと誰もがもがき、必死になっている。そんな姿を見ていたら、自分が恥かしくなってきてさ。俺も頑張ってみるよ。

 高校1年のときに登校拒否になった。原因は俺が同級生のお金を盗んだという疑い。そんなこと絶対にしていないと先生にも訴えたけど、信じてくれなかった。それ以来、同級生のイジメが凄まじくなった。こんな学校なんか辞めてやらあ。それから自分の部屋に閉じこもった生活を3年間も続けた。家族のみんなが心配してくれたけど、もう駄目。生きていく気力が湧かないもん。そんな俺の顔を見れば、「学校へ行け、勉強しろ、バイトでもしてみろ」。なにもかもが嫌になって部屋に鍵をかけた。

 体重が激減。骨と皮だけのような体で、二階から滑って落ちて骨折。1カ月入院して自宅に戻ったら、みんなの顔つきが変わっていた。「もうお前を甘やかしておく余裕はない。明日から働いてもらうぞ」。父さんのこの一言に、俺はマジギレ。父さんの顔を殴ったら鼻血が出た。その瞬間、兄貴が俺の顔を殴りやがった。もうボコボコになるまで。このままじゃ殺されるなと思ったから、「働くよ、働きゃいいんだろ!」。

 バイト先は兄貴が勤めるファミレスのウェイター。最初はまともな挨拶もできず、お客の顔も見られなかった。でも店長さんやバイトの先輩、お姉さんたちが、決して怒らないで優しく教えてくれた。じっと見守ってくれた。俺がどんな人間か知っていたんだね。嬉しかったよ。時間はかかったけど、接客にもなんとか慣れた。

 それにしても都会には様々な人がいる。特に深夜だ。水商売帰りの人たち、勉強する学生、原稿を書く人、それに何らかの事情で家に帰れない、居られない老若男女など。俺のような事情を抱えた若者もいるんだってことが見えてきた。

 でもこの人たちはとても優しく、シャイで、素直で、真面目。会話こそ交わさないけど、常連同士で顔を合わせれば必ず頭を下げたり、微笑み合う。店長さんやバイト連中に言わせると、深夜ファミレスに来る人たちは、このファミレスで孤独や悲しみ、苦しみをつかの間でも忘れようとやってくるんだって。赤の他人同士の集まりであっても、彼らにはここが家庭であり、家族の台所、居間、そして避難所なんだな。人間は一人じゃ生きられない。誰かに支えてもらったり、支えてあげなくちゃ。

 俺の仕事も分かってきた。彼らに俺ができることといえば、温かな眼差しで見守ることと、精一杯のもてなしをすること。それが今の俺の生き甲斐。父さん、俺の殻を破ってくれて感謝。本当にありがとう。(2011年5月29日)

父 50歳:地方公務員
息子 20歳:アルバイト