東京ウィンナー物語

廃業の危機! 社員を全員解雇、「第二の創業」に立ち向かう試練の日々

第1回 外国人をもうならせる極上のウィンナー
 
 埼玉県の川口市に、ハムとソーセージを製造・販売している会社がある。東京ウィンナー(株)といいい、社員は6名、年商も1億6000万円ほどの小さな会社だ。しかしこの会社が作るハム、ソーセージがめっぽう旨い。「一度食べたら病みつきになる」と、隠れたファンも多い。

 味にうるさい外国人をも唸らせる秘訣、それはその作り方にある。通常、1キロの肉をウィンナーにする場合、卵白や豚の血液を粉にしたものを混ぜ、1.5キロから2キロの商品に加工するのだが、混ぜ物なしだと700グラム程度にしかならない。この会社では塩、香辛料を加えるだけで、増量のための材料は一切使用しないのが鉄則だ。原料肉を整形し、ハムで約20日、ソーセージで3日ほど塩漬けにした熟成させた後、スモーク室で乾燥させ、桜のチップ材で燻製にする。

 質の高さ、手作りと共に安全性にもこだわりを見せる。原料肉は国産のみを使用し、できる限り化学合成飼料や抗生物質を用いない生産者の肉を使っている。日持ちし味も良くなることから、発色剤として亜硝酸ナトリウムを使用しているが、それは必要最低限の量であり、基準の10分の1から20分の1の量にすぎない。いささか値は張るものの、こうした点が評価され、埼玉県を中心にクチコミで個人客が増え、学校給食を始め各種レストラン、弁当メーカーなどへも納入している。

 創業は1961年。今年でちょうど40周年を迎えた。応接間を兼ねた社長室に、朝の仕事を一段落させた片山信太郎氏(56歳)が作業服のまま入ってきた。額には汗が光っている。ソーセージ屋の社長というよりは、どこかの大学の教授風で、語り口もおっとりしている。廃業の危機を乗り越え、社員を全員解雇して「第二の創業」を果たしつつある人物にはとても見えない。「紆余曲折、山あり谷ありの人生でした。でしたではなく、これからもそうでしょうな」と屈託なく笑う。

○第一楽章「創業行進曲」
 片山氏は二代目の社長だ。先代の社長は父である広重氏。新潟の庄屋の家系に生まれた広重氏は、養蚕業を営む裕福な実家と生活に満足することなく、青雲の志を抱いて上京する。経済専門雑誌の記者、証券会社の調査マンなどを経験、いずれは出版社を興す夢を持っていた。そんな彼に声をかけたのが遠縁の男である。「ソーセージを作る会社を作ったんだが、なかなかうまくいかなくてね。どうだろう君のこれまでの経験を生かし、会社を再生してくれないか」。

 ソーセージと聞いてピンとくるものがあった。以前、ドイツ人がオーナーのレストランで、本場のソーセージやウィンナーを口にしていたからである。その旨さには驚いた。当然だろう、当時の国内産ソーセージ、ウィンナーといえば、くず肉を使用したものが多く、味わうどころではなかった。「日本もこれからはどんどん豊かになる。それにつれて本物の味を求める人々も増えるに違いない」。そう確信した広重氏は赤字であることを承知しつつ、その会社を引き継ぐ決意をしたのである。

 「父には先見の明があったと思います。だが時期尚早だった。消費者が本物の味にこだわり、安全な食べ物を求め始めるのはもっと後になってからのことです。それまでの間、不本意な価格競争、取引競争に明け暮れ、『自分が家族に食べさせたいと思える、安全なものを造る』という企業理念から、遠ざかったと思えば再び戻ったりと揺れ動いてばかりでした」。

 広重氏が会社を引き継いだ当初、百貨店やレストランは大手の同業他社が支配していた。名も無い小さな同社が入り込む隙などどこにもない。そこで考えたのがゲリラ作戦である。競輪場やボートレース場、早朝の魚市場のスタンドに商品を置いてもらった。またスーパーストアにも日参する。当時、大手はスーパーを有力な市場、取引相手としては考えていなかった頃であり、開拓は以外に楽だった。しかし課題が与えられた。うまくて安全なウィンナーは製造量に限界があり、単価も高い。だが高い商品などスーパーでは置けないと釘を刺されたのである。仕方なく混ぜ物を使った安い商品を卸したところ、これが売れた。売上に占めるスーパーの割合も高くなっていく。

 だが70年代に入るとライバルの大手もスーパーに参入をするようになった。大量生産による低価格商品が相手である、ひとたまりもない。再び大手が作らない「値段は高いが安全で旨い」ソーセージを作る決意をする。会社一丸となった販売促進活動が功を奏し、取引するスーパーは関東一円に広がり、売上は倍増する。従業員も50名、年商も6億円と、広重氏の目論みは成功したかに見えた。

 「79年のオイルショック、これで会社が傾いていくんです。景気の低迷と消費者の買い控えで物が売れなくなる。スーパーとしてはなんとしてでも客を呼び戻したいから、安売りに走るわけです。メーカー、納入先に対してもダンピングを求めてくる。当社も例外ではなく値切りを迫られた。零細なメーカーに薄利多売で乗り切れる生産性、資金的余力などありません。かといって売上の大半を占めるスーパーから撤退する勇気もない。そのままスーパーとの取引を続けるはめになっていったのです」。

 何事もなく数年が過ぎた。給料もボーナスも滞りなく支払われている。「そのうち景気も回復し、再び我が世の春を謳歌できるに違いない」。誰もがそう思っていた。ただ一人、広重氏だけを除いては。

 「会社は廃業にする。これ以上続けても借金が増えるばかりだ」。
 87年のことである。役員会の席上、沈痛な面持ちで広重氏が重い口を開いた。オイルショック後から8年で1億3000万円の累積赤字。債務超過となり銀行からの融資は受けられず、あちこちから借金を重ねての自転車操業。返済する利息は年800万円という実情が初めて明かされた。青天の霹靂とはまさにこのことであろう。片山氏と役員たちの頭の中は真っ白になった。

第二楽章「別れの曲」
 「冗談じゃない。今さらそんなことを言われて、はいそうですかと納得できますか。社員の生活はどうなるんですか。会社は絶対に潰さない。潰してはならない。私だけでも立て直してみせる」。トップダウンですべてが決められてきたなか、初めて片山氏だけが広重氏に噛み付いた。

 好きでこの仕事を選んだわけではなかった。高校を卒業し、一浪をしている最中、社員のひとりが事故にあい退社した。人手不足に悩む父親の会社を、長男として黙って見ているわけにもいかない。ほんの軽いアルバイトのつもりで手伝うことにした。

 「音楽家になる夢があったんです。子供の頃にバイオリンを習い、筋の良さを専門家から誉められたこともあった。アルバイトをしても受験には障害にはならないだろうと。ところが父親はアルバイトといえども特別扱いしなかった。朝は暗いうちから叩き起こし、工場でウィンナー作りを基本から教え込む。昼になると営業のイロハですよ。その合間を縫って商品の発送と、一日4時間しか眠れない日が何日も続き、とても受験勉強どころではなかった」。

 実社会の経験が乏しい10代の若者にはさぞきつい仕事だったに違いない。だが仕事に慣れるにつれ、面白さも分かってきた。スーパーなどの新規開拓では父親からも一目置かれるようになる。なによりも自分が苦労して作った商品に愛着と誇りが湧いてきた。

 父親は厳しかったものの、社員やパートの人々は片山氏には優しかった。まるで弟のように接してくれた。片山氏も社員やパートの人たちを家族、仲間のように思い、よく飲み明かし、語り明かし、遊んだものである。

 ゆくゆくは後継者にとの腹積もりがあったのだろう、広重氏の片山氏に対する姿勢は厳しさを増した。「挨拶がなっていない」「掃除の仕方が悪い」「言葉遣いに気をつけろ」など、時と場所を選ばずに怒鳴られた。とくに幹部社員の前では頻繁に注意、叱責を受け、悔し涙を流したことは一度や二度ではない。だがこれが社会人としての片山氏を形成していく。

 気がついたときには40代、専務の肩書きになっていた。さあこれからという矢先、突然の廃業宣言である。少年、青年時代からの夢を犠牲にしたという想いが頭をもたげた。父親の片腕として会社を盛り上げてきた自負もある。この仕事、世界しか知らないのに、これから新しい職など探せるのか、またやっていけるのか不安もよぎった。専務という肩書きにも未練がある。同業者の「安全性、本格的な味と言ったところで、潰れてしまってはね」という声も聞こえてきそうだ。さまざまな思いが頭のなかを駆け巡り、戸惑い、怒り、不安が交錯、「冗談じゃない」と口に出してしまったのだ。

 「それからは父親に廃業を思いとどまるよう、説得する日々が続きます。何度か旅館に泊まり、再建計画について激論を交わしたし、とにかくもう一度やってみようと必死に食い下がったのですが、首を縦に振ることはなかった。そのうちに根負けしたのか、父は勝手にしろと代表印を渡してきたんです」。

 翌88年の1月、片山氏は社長に就任した。早速、これまで取引のあった銀行に出向いた。社長就任の報告と共に、今後の返済方法について相談、支援策を請うためである。中長期計画書に添えてあった決算内容を見て、担当者は驚いた。だがしばらく考えた後に、担当者はこう切り出した。「廃業は避けられるかもしれませんね。ただし、思い切った手術が必要ですよ。その手術に成功したらウチへの返済はもちろん、会社再建の目途もつくかもしれない」。

 悩み抜いた末、赤字の原因であるスーパーとの取引を全面的に断念した。社員、パートたちは青ざめた。これが何を意味するのか誰でも分かる。スーパーとの取引断念は売上がほとんど見込めないということだ。「全面中止ではなく、一部削減に留めては」とも考えたが、それでは元の木阿弥になってしまう恐れがある。ここは非情な決断を下さなければならない。自分たちの雇用はどうなるのか、固唾を飲んで社員たちは片山氏の次の言葉を待った。「申し訳ありません。皆さんには全員退職してもらいます。これまで支えてくれたのに、私が至らないばかりに」。全員、下を向いたまま黙った。そして頭を下げてあちこちからかき集めてきた金で給与、ボーナス、解雇予告手当などを支払った。

 「長年にわたって苦楽を共にしてきた仲間たちですからね、その彼らと家族を路頭に迷わせてしまうのですから、こんな罪なことはない。全員解雇を決めた前日の夜は、さすがに眠れませんでした。なにしろ男性社員が60名ほどいて、なかには血の気の多い者もいた。それに仕事柄、包丁さばきも上手い連中ですからね(笑)。ただでは済まないことも覚悟していたんです」。

 怒りを表に出す社員はいなかった。また不平や不満の声も聞かれなかった。それどころか「頑張ってください」「ここまで会社を追い込んだのは、我々にも責任がある」と言ってくれたのである。片山氏にできることは、会社を去っていく社員を最後の一人まで見送ることだけだった。(続く)