第二回 「第二の創業」に向かっての挑戦

○第三楽章「新たな旅立ち」
 一からの再スタートは社員全員の解雇だけでなく、家族にも無理を強いることになった。銀行からの返済金に充てるため、住み慣れた家と土地を数千万円で処分したのである。家族4人は狭い2DKのアパートへと引っ越した。

 社長就任にあくまでも反対し、「社長になるなら離婚して欲しい」と迫った奥さんも、やつれ果てた顔に変わっていた。こんな境遇に陥ろうとは、彼女も予想だにしていなかったに違いない。また幼い二人の子供たちの寝顔を見ていると胸が締め付けられた。社長としての任をまっとうできなかったばかりか、夫、父としてのふがいなさをも痛感した。

 家と土地さえも処分して再建に賭けようとする片山氏。それが生半可でないことが分かり、奥さんも協力を決意する。こんな心強いことはない。仕事に行き詰まったとき、あるいは悩み苦しんでいるとき、いつも支えてくれたのは彼女だった。同郷、幼なじみの間柄。彼女の弟が上京してきたときに、なにくれとなく面倒を見た。そして彼女も職場を求めて上京、やがて付き合いを重ねて彼女が24歳のときに結婚した。優しくて面倒見の良いところが気にいった。

 「スーパーとの取引は断念したから、残されたのは僅かな得意先だけ。しかも妻と二人だけの会社になったのですから、作る量と売上はたかが知れている。だけど細々とでもいいから納得のいく商品を作り、行商をしてでも借金を返していこうと。彼女にも意地があったのでしょう。このままでは終わりたくないという。二人の意地を合わせたら、ある程度の苦しさも乗り越えられそうな気がしましたし、元気も湧いてきた」。

 まだまだ無名の存在だが、東京ウィンナーという会社の商品に対するこだわりは、業界内、問屋、取引先にも知られるようになり、少量だが扱ってくれる先もあった。また「東京ウィンナーの商品でなければ食べる気がしない」と言ってくれる個人客も付きはじめた。そうした期待を裏切るわけにはいかない。それに幼い長女への罪滅ぼしもある。「アトピーで年中痒みに襲われては泣いていました。その原因がもしかしたら自分にあるのかもしれないと思った。しっかりした食事をおろそかにし、インスタント食品ばかり食べていたからです。こうした体質がもし長女に遺伝したとしたら」。娘と同じアトピーに悩む子供たちに、安全な食べ物を作り、提供していくのがこれからの自分に課せられた務めではないか。創業理念に立ち戻り、第二の創業に立ち向かうきっかけが掴めた。

 全員解雇を告げて間もなく、解雇した社員1人とパートの女性4名が片山氏のもとを訪ねてきた。なんだろうと訝ったところ、口を揃えてこう切り出した。「もう一度雇ってくれませんか」。耳を疑った。「こんな居心地のいい会社なんて、どこにも無いような気がして」「一から新しい仕事なんて覚える気がしない」「もう一度、納得のいくウィンナーが作りたい。給料は安くても構わないから」。奥さんと共に強力な助っ人が現れた。「そうは言っても仕事はこれまで以上にきつくなるし、給料だって払えるかどうかも分からないよ。それでもいいの?」と念を押したところ、全員が嬉々として頷く。晴れ晴れとした気分に浸ったのは久しぶりのことだった。


 「仕事は本当にきつかった。朝の4時に起きて生産を始め、一服する間もなく6時か7時には営業や納品作業に駆け回るという日々が続きました。年明けの2日間以外は一日も休まず、体重は10キロも減ってしまった。だけど誰も一言も文句を言わない。そのおかげで給料は滞りなく支払うことができたし、初めの1年こそボーナスは払えなかったものの、翌年からはちゃんと払うこともできたんです。新たな創業の勢いというか、儲けこそ少なかったものの、職場は活気づいていました」。

 仕事の手順、要領は指示されずとも全員が分かっている。出社すると自分がその日やるべきことを黙々とこなす。社員というよりは専門分野に通じた職人の集まりといっていいだろう。だから片山氏にも作業上の疑問や不明な点があれば質し、改良、改善を求めた。また味や商品開発、販売方法についても積極的に提案するようにもなっていた。「まるで職人経営者の集まりのようだ」。片山氏にはそう映った。社員旅行やリクレーショーンなど望むべくもない。せめてもと、時間に余裕のある日はバーベキューパーティーなどを開いて慰労した。父、広重氏の時代にはなかった、家族的な雰囲気が定着しつつあった。

その広重氏が、入院先で71歳の生涯を閉じた。
「晩年の父は、金策に追われる私の姿を見てよくふさぎこんでいたものです。心の片隅では代表印を渡さなければ良かったと後悔していたのかも知れません。私は私で父への反発心があったからこそ会社を続けてこられたと言えるのですが、その私の意地が逆に父を悲しませる結果になったことは事実ですね。供養の意味からも会社を続けていかなくはならないと」。

 会社の苦しい台所事情を知った取引先の問屋が、同業者を紹介してくれた。その同業者から「学校給食に使ってもらったらどうだろうか」とアドバイスを受けた。学校給食などこれまで考えたこともなかったが、藁をも掴む思いで幾つかの市に売り込みに行ったところ、ある市が安全性を高く評価しくれたのである。そして30校分の給食用ウィンナーとして採用してくれることが決まった。光明を見出した思いだった。それをきっかけに居酒屋やレストラン、弁当メーカーなどからも注文が舞い込むようになった。ここに至り、広重氏が思い描いていた「多少は値が張っても、誰もが安全性と本格的な味を求める」時代が数十年後、ようやく巡ってきたのである。

 会員を募って商品を受注、発送する通信販売「ベストセレクション頒布会」も好評だ。銀行からの借金返済もほぼ目途がついたし、家と土地も再び手にすることができ、家族に一応の恩返しができた。これからは最盛期のように拡大路線に走るのだろうか。

 「それはしません。地道にコツコツと前を向いて走ることにしている。儲けは少なくてもいいから、長く愛される商品を作っていきたい。それと楽しい職場作りです。生活のためだけ、食べるためだけの仕事というのは寂しすぎる。ウチの会社をもうひとつの家族として集い、そして楽しんで過ごしてもらいたい」。

 和気あいあいとしながらもウィンナー、ハム作りにかける情熱には凄まじいものがある。思えば父親を始め、社員やパートなど多くの人々から今の自分、会社、商品を育ってもらった。今度は自分たちが育てる番だ。ある若手社員が先輩社員の作り方を見て、教わり「たかがウィンナーやハムなのに、ここまで真剣にならないといけないものなのか。果たして自分に作れるのだろうか」「商品を購入してくれる人たちのことを考えると、ちょっとした油断も許されない。怖くなってきた」とこぼしたという。自分たちの仕事、顧客の顔や生活がこれほどまで実感できる会社というのも珍しいのではなかろうか。

 片山氏の楽しみは年に一度か二度開かれる「OB会」だ。以前、解雇した社員やパートの人たちを居酒屋に集めての親睦会である。それぞれ別な道を歩んでいるかつての仲間たちと楽しい思い出話、苦労した話などに花を咲かせるひとときに疲れも癒される。また元気がもらえると微笑む。

 片山氏の話を聞いているうちに、外国の室内アンサンブルが思い浮かんだ。家族、親戚で構成された無名の室内アンサンブルは、世に埋もれた作曲家の曲しか演奏しないという。それぞれ独自で演奏技術に磨きをかけつつ、厳しい指導も受ける。指導は技術だけではなく音楽思想、人生哲学、果ては自分たちの存在意義にまで及び、「ファミリー」としての絆も深めていく。コンサートは年に数回。生活費はほとんどパーティなど出前の演奏で稼ぐ。当然、生活は苦しいはずだか、メンバー全員、演奏している最中は至福の表情を覗かせていた。そして聞き手も幸せそうな表情を浮かべているのだ。その昔、ニュース番組で見たこうした場面が東京ウィンナーという会社と重なった。

 もしかしたら片山氏は音楽家の夢を捨ててはいないのかもしれない。音楽家というよりは「食楽家」か。メンバー(社員)や聴衆(顧客)と共に極めつけの音楽(味)を作ろうとしているのではないか、ふとそう思った。だとしたらこれから先、片山氏と仲間たち「食のアンサンブル」、いや「食樂家たち」は、第四楽章ではどんなタイトル曲(味)を奏でるのか楽しみだ。

※ この「東京ウィンナー物語」は、2001年8月発行の『別冊宝島Real 020号  敗者復活! いまだ会社再生の途上にて』からの抜粋です。固有名詞、数字などは当時のものです。