八戸自由大学第15回講座より抜粋

講座名

  薩摩から来た八戸藩主と幕末の政局


講師 三浦忠司氏 (昭和23年生まれ八戸高校、弘前大学卒業青森県立高等学校教諭を経て、八戸市編纂室長となり平成20年八戸市立美保野小中学校校長を退職。現在、八戸歴史研究会会長、安藤昌益基金会長、八戸地域歴史団体協議会会長、安藤昌益記念館館長)


講座より抜粋

1 南部信順(のぶゆき)の八戸藩主就任までの過程
  
 天保8(1837)年11月22日、南部藩の若殿である信一が宇都宮で死去する。同年12月7日、江戸にて死去と幕府へ報告。翌年の天保9年4月、津島篤之丞が八戸藩へ婿入りし、鶴姫(3才)と婚姻。当初、公儀は「家格が違いすぎる」との理由で篤之丞の婿入りには反対した。天保13年、信順が9代藩主に就任する。信順は津島重豪(しげひで)の子で、兄には中津藩主となる奥平昌高、福岡藩主となる黒田斉溥(なりひろ)、姉には徳川家斉夫人の茂姫、徳川家定夫人の篤姫などがいる。信順がなぜ八戸藩に婿入りしたのかは謎とされている。一説には八戸南部家、島津家ともに相撲好きだったことから、それが縁、交流となっての婿入りという説もある。

2 八戸藩の家格上昇

 信順が藩主に就任するまでは、八戸藩は三万石の弱小藩だったが、信順が藩主になってからは家格が急上昇する。天保9年までは江戸城での家格は城主格だったが、安政2年(1855)には従四位下(四品)となり、10万石なみの大広間詰め、文久元年(1861)には侍従(天皇の側に参内できる位)へと昇格。大大名クラスとなる。それに伴って藩の財政状況も好転し囲い金(貯蓄)も天保14年には1万両、弘化2年(1845)3万両、同4年には5万両にまで達する。その一方で、八戸の商人、大岡長兵衛は著書「多志南美草」で、次から次に格式が上がったおかげで、献金も多くなったと昇格を批判している。

3 信順の公武合体運動

 嘉永4年(1851)、島津斉彬が薩摩藩主に就任。信順は島津家の名代となる。兄である黒田斉溥、奥平昌高らとともに斉彬の擁立運動を画策、老中の阿部正弘、宇和島藩主の伊達宗城(むねなり)、福井藩主の松平春嶽らと提携する。また斉彬の幕政改革にも協力(外様雄藩による幕政への関与と将軍家への大奥工作)した。例えば安政3年の篤姫の将軍家定への輿入れなど(将軍継承問題と一橋慶喜の擁立など)。安政5年、斉彬が死去。斉彬の遺命により島津一門は公武合体運動へと動く。島津久光は藩兵1000人を率いて京や江戸に赴く。安政7年の桜田門外の変で井伊直弼が死去。その後、老中の久世大和守と安藤信正が皇女和宮の降嫁による公武合体運動を推進する。

●信順の江戸屋敷での訪問

 文久元年は信順が侍従に昇格した年であるが、同年、信順が江戸に赴いた折、頻繁に久世大和守、薩摩藩、島津藩を訪問していたことが、八戸藩士の遠山庄七(遠山日記の筆者)によって記録されている。久世家にいたっては一年間で24回の訪問。他に福岡藩、桑名藩、大垣藩、大和郡山藩、砂土原藩、津島藤堂家、新発田藩など。公武合体運動と関わりがあるのは明らかだ。


●老女のネットワーク

 老女とはお女中衆のことで、老女はそのトップ。藩主として婿入りあるいは側室として輿入れする際には、生家から老女も付いてきた。信順が八戸藩主として就任した折には島津藩から老女の都川も城入りしている。この都川は頻繁に他藩の老女(島津藩から派遣された老女)と手紙のやり取りをしていた。薩摩藩老女の小野島、篤姫の幾島などである。通常、藩主への、あるいは藩主から他藩の藩主への手紙は家老が中味を確認するものだが、老女の手紙は「女中状」と呼ばれて誰もその内容を見ることはしなかった。そのため、重要な内容の手紙が老女間でやり取りされていたのではないかと推測される。


文久2年1月坂下門外の変が勃発。これにより安藤・久世が失脚。同年2月皇女和宮が将軍家茂と婚姻。明治元年、奥羽列藩同盟に加盟。野辺地で弘前藩と戦争するが、島津藩・薩摩藩との関係から官軍による咎めはなかった。明治4年、信順が死去。同7年、江戸の八戸藩邸は静寛院宮(和宮)邸となる。