八戸自由大学平成24年度第1回講座より抜粋

講座名

 災害の歴史に学ぶ--八戸地方の災害・飢饉史


講師  菊池勇夫(きくちいさお)氏(宮城学院女子大学学芸学部教授)

菊池勇夫氏プロフィール 
1950年三戸郡五戸町出身
立教大学 ( 文学部 史学)  同大学院卒業  専門:日本近世史
主な著書 『飢饉から読む近世社会』(校倉書房、2003年) 
『蝦夷島と北方世界』(日本の時代史19編著、吉川弘文館、2003年)
『菅江真澄』(人物業書 吉川弘文館、2007年)
『十八世紀末のアイヌ蜂起?クナシリ・メナシの戦い』(サッポロ堂書店、2010年)など   

講座より抜粋

天明の飢饉
東北地方は1770年代より悪天候や冷害により農作物の収穫が激減しており、既に農村部を中心に疲弊していた状況にあった。こうした中、天明3年3月12日(1783年4月13日)には岩木山が、7月6日(8月3日)には浅間山が噴火し、各地に火山灰を降らせた。火山の噴火は、それによる直接的な被害にとどまらず、日射量低下による冷害傾向をももたらすこととなり、農作物には壊滅的な被害が生じた。このため、翌年度から深刻な飢饉状態となった。さらに当時は、田沼意次時代で重商主義政策がとられていたこととも相まって、米価の上昇に歯止めが掛からず、結果的に飢饉が全国規模に拡大することとなった。

被害は東北地方の農村を中心に、全国で数万人(推定で約2万人)が餓死したと杉田玄白の著書『後見草』が伝えるが、諸藩は失政の咎(改易など)を恐れ、被害の深刻さを表沙汰にさせないようにしていたため実数は1ケタ多い。弘前藩の例を取れば8万人とも13万人とも伝えられる死者を出しており、逃散した者も含めると藩の人口の半数近くを失う状況になった。飢餓と共に疫病も流行し、全国的には1780年から86年の間に92万人余りの人口減をまねいたとされる。

農村部から逃げ出した農民は各都市部へ流入し治安の悪化が進行した。1787年(天明7年)5月には、江戸や大坂で米屋への打ちこわしが起こり、その後全国各地へ打ちこわしが広がった。

「餓死萬霊等供養塔(がしばんれいとうくようとう)」と「戒壇石(かいだんせき)」 当時の詳細を後世に伝える為に記した石碑(昭和63年1月16日青森県史跡指定)が、 西暦1785年(天明5年)青森県八戸市内の対泉院に建立された。

両碑の裏面には、天明の大飢饉に於ける当時の八戸領内の天候や作物の状況、食生活、餓死者や病死者の数、放火や強盗といった治安悪化の様子、飢饉で得た教訓を後世に伝える内容が記されている。かつては人肉を食す様子を記した部分が存在したといわれ、意図的に削られたとも。

東北地方では冷害・飢饉が多いことが知られているが、南部八戸藩に限定してみると西暦742年(天平14年)の凶作以来、平成15年の作柄指数53の冷害までなんと139回にも及んでいる。寒冷・降雪早く凶作(742年)霜、五穀熟せず、米価騰貴せり、疫疾ありて死亡数大(762年)などとあり、数年おきの凶作も多かった。

八戸藩の飢饉状態

1783 天明3年 大凶作 ● 冷害皆無作。4月より東北風にて極寒の如く、冷雨打ち続き8月17、18日降霜。8月27、28、29日暴風雨。12月は南風がしきりに吹き4-5月の気候。餓死者75,180人。退散者3,330人。空屋10,545戸。6月中旬豪雨。諸川叛乱。五戸、七戸、八戸最も惨状を極め、餓死者の肉を喰らうに至る。領内餓死者23,000人。損耗高189,000石に上る。8月より12月にかけ奥入瀬方面の窮状甚だしく、遂に米騒動発生し、富豪を襲い食糧を強奪す。大将苫米地甚九郎なり。
 
1784 天明4年 不作 ● 風雨7分作。雨風につき不作。損耗高93,000石余。前年の飢饉の影響にて惨状殊に甚だしく、草根木皮を喰らいて足らず、遂に人々相喰むに至る。餓死者40,850人。病死24,000人に達する。
 
1785 天明5年 凶作● 冷害3分作。6月末頃より風雨冷涼。綿入れを着る。8月6日暴風雨。この年も凶作にして損耗高177,000石に達す。惨状以前と異ならず。馬門大火。
 
1786 天明6年 大凶作 ● 冷害大洪水。春以来雨続く。土用中寒冷。晩稲植え付け禁止令下る。損耗高173,000石。
 
1787 天明7年 凶作● 風水害大洪水5分作。天下飢饉。各地に米騒動あり。損耗高63,000石。

1788 天明8年 不作● 風害。大風雨。大洪水。

1789 寛政元年 凶作 ● 冷害大洪水5分作。損耗高55,000石。


野村軍記と百姓一揆

野村軍記は 安永3 (1774)生まれで、天保5.10.20 (1834.11.20)に没した。
江戸後期の陸奥国(青森県)八戸藩の家臣。当初は50石をもって仕えた。藩財政の逼迫に悩んでいた八戸藩では,軍記を主法専務に登用して,文政2(1819)年から藩政改革に乗り出した。江戸藩邸の経費節減,綱紀粛正,新田開発,特産品の移出,藩専売制の実施による商業資本の統制など,多岐にわたる財政再建策を打ち出した。軍記は側用人に登り権勢はほかに並ぶ者がなかったが,藩士や領民の反感を買った。天保5(1834)年八戸藩領で起こった総百姓一揆の責任を負わされて入牢して八戸で獄死した。

 百姓一揆とは何だったのか。八戸領内の百姓たちは、70以上の願書を出すが、願書のほかに二つ願い事がある、という。一つは、こうだ。「野村軍記、これまで色々の諸過役を申しつけ、まこと持ち合いの穀物まで取り上げ、凶年違作に一粒の施しもなく、1日に1人稗3合の割り渡し、百姓こぞって嘆きまかりあり候間、同人を頂戴つかまつり、1日玄稗3合づつ食べさせ、田畑働きいたさせ、薪芝をとらせたい」という。もうひとつは、この寒中の中、野宿している者もいるので、町家で休息させてほしい、というもの。

野村は、藩の産物を統制し、領民から安く買い上げ、これを江戸や大坂に高く売りつけて、財政をふやした。また、八戸の名を高めるために、神社仏閣を壮麗にしたり、江戸の横綱をおかかえにしたり(藩籍にする)、八戸の三社大祭で、騎馬打球を復活させたりする。

天保の飢饉のとき、新潟、大坂に出張して米を買い入れるが、これを領民には渡さず、一部をよそで高価に売って麦を買い、家臣には、米給与の代わりに麦給与にする。百姓には、1合の米もわたさず、ただ1日1人稗3合を渡して、それ以外の穀物を出させ、藩札で安く買い上げた。これに怒っての一揆だった。

飢饉に対してどう対応すべきか。藩、商人、百姓、いずれも利害が絡むだけに複雑である。野村軍記を一人悪者にするのは簡単だが、彼の財政担当能力は優れたものがある。三者三様の利害を調整してどう飢饉(クライシス)に対応すべきか、野村軍記と百姓一揆の事件から学ぶべき点は多い。