貧困撲滅! 政府はいったい何やってんだ


 親父、例の交通費が無くて面接にも行けなかった20代のお姉ちゃん、どうにかこうにか仕事が決まったってさ。親父が貸した交通費、ちゃんと返しにきたよ。よかったな。

 それにしても、どいつもこいつも金と仕事、そして食べ物と泊まる場所に泣いてる奴ばっかりだ。発展途上国並の経済と福祉だな、我が国は。

 俺がいつまでもフリータやってんのに業を煮やした親父。「金を出してやるから店でも持て」。渋々親父の退職金の一部を借り、さらに銀行から融資を受けて持ったのがネットカフェ。パソコンとゲームが好きな俺には合っているし、時代の流れにも乗って、開店当初から数年は順調に黒字経営。やったぜと思った。

 ところが数年前から様子が変わってきた。客層だ。10代から50代までの男女、いずれも貧乏臭い奴ばかりが占めてきた。しかも夕方に来店したら電車の始発時間までブースに閉じこもったまま。じっとパソコンの画面に向かう奴もいれば、疲れ果てて眠っている奴もいる。足元には大きなバッグか、キャリーバッグがデンと置かれ、それが奴らの全財産だと後で聞かされてシヨック。

 ほとんどの連中がフリーター、派遣社員、請負のその日暮らし。給料なんて定まっていないから、地方からやってきた連中なんかはアパートの家賃も払えない。住所不定だから履歴書にも現住所は書けない。住所不定の人間を雇う企業なんかないしな。携帯だけが頼みの綱だけど、その携帯料も払えない奴もいる。栄養失調、貧血で倒れる奴だっていた。

 「儲けは考えるな。赤字にならず、銀行に借金返していける程度でいい」。そうだな。今さら店を替えようにもどうにもなんないし。親父から借りた退職金、諦めてくれよな。

 店の常連の悩み事、相談事にあたったり、ときには交通費や食事代を貸してあげる親父。俺も仕方ないから銭湯代やらクリーニング代、携帯料金も立て替えたりしてやってる。

 こいつらの中に一人でもいいから貸した金を踏み倒したり、逃げた奴がいたら、俺はすべての客に厳しく接するつもりだった。だけど一人もいやしねぇ。どいつもこいつも真面目に返済してくる。たった1万円の金を、3カ月かけて返しにきた20代の兄ちゃんには、泣かされたよ。

 こいつらを見捨てるわけにはいかん。最近じゃ、お袋も近所や知り合いかに声をかけ、中古の靴やら洋服なんかを集め、困っている連中に渡している。それもサイズごとに。涙流して感謝する連中を見ると、さらになんか手伝ってやりたくなる。

 困った客は増える一方だ。しかしまったく儲からねえ。まあ、しょうがねえか。親父、頼りにしてるよ。(2012年5月6日)

親父 68歳・無職
息子 36歳・自営業



 お父さんたち定年退職3人組に感謝!


 お父さん、お店の売り上げは3カ月連続で黒字よ。よかった、お店を手放さなくて。もしお店を手放していたら、借金だけ残ってたもんね。

 派遣先で友だちになった私たち3人は、いつも金欠状態。正社員の羽振りの良さを横目で眺めつつ、「見ていろ。いつの日か私たちだって」と、密かに成り上がりを夢見ていた。
   
 そんなとき、「私たち3人でスナックでもやってみない」と、仲間の一人が提案。彼女の叔母さんが長年、下町で小さなスナックを営んでいたけど、高齢を理由に引退を決意。ついては誰かにお店を引き継いでもらいたいとのこと。美人じゃないけど、愛嬌だけは自慢の私たちは、興味もあってその提案に乗った。敷金と礼金はなし。家賃も格安だったしね。

 週末は目が回る忙しさ。常連さんに加え、「愛嬌のある女が3人もいる」と噂が広がり、新しいお客もついた。だけど、平日はガラガラ。たまに来店するお客はいかにもアブなそうな連中ばかり。トータルすると売り上げも芳しくないし、内装にかけた借金が負担になってきて、開店して早くも3カ月でギブアップ。

 そんな矢先、ひょっこり顔を出したのがお父さんたち3人組。私たちの表情からお店が順調でないことを察し、「日中だけでいいから、俺たちに店を貸してくれないか」だって。
  
 マジ? 定年定職して暇なのは分かるけど、商売なんて無理だよお父さんには。経理一筋だったんだから。

 ところが意外。お父さんたち3人組が始めたのは、喫茶と軽食。お客なんか期待できないと思っていたのに、結構な人の出入り。お客のほとんどがお父さんたちのような、定年退職を迎えて暇そうなおじ様方。大半が近所の大型団地からやってくる。

 「この年代はファミレスには抵抗があるんだよ。なんたって若造とかオバサンに占領されてるからな。ここを爺さんたちに解放するんだ」と、元市場調査部部長。もう一人は定年退職する前から調理学校などで料理、喫茶を学んだ元営業部部長。「爺さん向けに低カロリー、低価格、そして豊富なメニューで勝負すんだ」。いやあ、なんというか、戦略的。

 お父さんたちの参入で、夜の部の仕入れなどコスト削減にも成功。日中のお客さんが夜の部にも流れてくれるようになり、回転も安定してきた。なんといっても安心できる客層がぐっと増えたのがうれしいわ。

 「家のなかでボーっとしてると女房がうるさいし、ボケるのも早そうだしな。同年輩の連中に、俺たちはまだまだ若いんだってとこ見せてやりたいし、励まし合いたいんだよ」。分かりました。どんどん頑張って売り上げを伸ばし、そして第2号店を目指そうよ。私たちならやれるって。(2012年5月13日)

親父 64歳・自営業
娘 33歳・派遣




  認知症の婆ちゃんとのけんか、これもリハビリのひとつだな


 久しぶりに帰省して驚いた。婆ちゃんがめっきりと老け込んでいたから。孫の俺の顔、最初は分からなかったもんな。「どなたさんで」と言われたときは、悲しかった。だいぶ認知症が進んでいたんだな。

 そんな婆ちゃんに向かって、親父が厳しいことを言うのにも驚いた。なんてひどいことを言うんだ。相手は認知症の婆ちゃんだぞ。こんなんじゃあ、虐待じゃないかと。

 だけど様子が違った。親父に叱られた婆ちゃん、親父に負けまいと反論する。そしてそばにあった物差しを持って、親父に向かって行こうとする。そしてペシッと叩く。しばらく経ったら婆ちゃん、笑顔になって、口も軽くなった。どうなってんだ。

 これも認知症のリハビリだと聞いて、再びビックリだ。お袋が亡くなって3年。それまではよくお袋と口げんかしていた婆ちゃん。だけどお袋が亡くなるとけんか相手がいなくなり、口数もめっきりと少なくなった。親父にけんかを売ろうにも、息子じゃあ売りにくい。無口になり、沈みがちになり、ストレスを溜めていく婆ちゃん。そんなときケアマネージャーさんがこんな提言。「息子さんからけんかを売ったらどうですか? それだけでも違いますよ」。

 無口になってブスっとしたときがけんかの売り時。どんな理由でもいいから親父からけんかを仕掛ける。応戦する婆ちゃん。脳が刺激されるんだろうか、けんかの後はさっぱりした顔になり、元気になるという。そして「ダメ息子の世話になんかなってられん」と、炊事、掃除、洗濯をせっせとするようになる。自分にはまだまだやるべきことがあると、自分を鼓舞するかのように。

 ケアマネさん、さすが福祉のプロ。高齢者のことをよく理解している。そして親父にも脱帽。誰よりも大事にしている婆ちゃんに対して、辛く当たる芸当をやってのけてるんだから。親父の辛い気持ちもよく分かる。だけど、これもそれも婆ちゃんに元気で長生きしてもらいたいから。

 親父が婆ちゃんに接している姿を見て、会社と社員のことを思い浮かべた。社長である俺は社員たちに対してちょっと甘すぎだったと。

 できるだけ社員の意見を取り入れ、失敗にも寛容。和気あいあいとした会社を目指そうしたけど、それだけじゃ会社は育たないことを痛感した。言うべきことは言い、指摘し、ときには喧嘩も辞さない姿勢を示さないと、会社はいつまでたっても仲良しグループから脱却できない。「会社にいかに貢献できるのか。そのために自分は何をなすべきか」。企業運営の基本を社員と共有しなくては。

 親父、悪いけどしばらく婆ちゃんのこと頼む。俺は仕事に全力投球だ。(2012年5月20日)

父 65歳・無職
息子 35歳・会社経営



  早く病気を治せよ、そしてアルプスを縦走しようや


 オヤジ、先日はお疲れ様。だいぶバテたんじゃないか。無理をさせちゃって悪かったと反省してるんだ。

 尾瀬を訪れたのは約30年ぶりだろうか。小学校に入学したばかりの俺を誘い、1泊2日のハイキング。子供心にも雄大な自然の迫力に圧倒されたっけ。だけど2時間も歩くと、何の変化もない風景に飽き、そして足取りも重くなり、「もう歩くのはヤダ」と、駄々をこねはじめた俺。

 途中で引き返すわけにもいかないし、オヤジは困り果てた。なんとかなだめすかして歩かせようとするものの、俺の癇癪は納まらない。仕方なく俺を背負い、ゆっくりと歩を進める親父。頭髪と首を流れる汗の香り、そしてシャツに染み付いた煙草の匂い。そんな香りや匂いに包まれて俺はいつしか眠ってしまった。

 気がついたら山小屋に到着し、親父は見知らぬ人々と楽しそうに語らっていた。親父の膝の上に乗っかり、見知らぬ人々を不安げに見渡す俺。どこかのおじさんのごつい手が俺の頭を撫で回した。「おい、まだ寝小便するんだってな」。どっと笑う人々。俺は恥かしくて泣き出してしまった。

 歩きながら、そんな思い出が蘇ってきた。懐かしいよ。小学生のときが一番楽しかった。よく遊んでくれたしな。だけどあの時を境に俺とオヤジの間には亀裂が走った。

 お袋がガンで危篤状態に陥ったとき、親父は地震被災地で災害復旧にあたっていた。お袋が駄目かもしれないことを知っていながら、帰ることを拒んだ。家族や親族は「仕事だから仕方ない」と。だけど俺は恨んだ。「自分の女房よりも他人の命のほうが大切なのか」と。焼却場にようやく姿を現したオヤジは薄汚れて臭った。三日三晩、不眠不休での救助活動にあたっていたことを、参列した上司から聞かされたが、俺の怒りは収まらない。以来、顔を合わせてもほとんど口をきくこともなし。

 そんな俺が親父と同じ自衛隊の道を選んだのは皮肉だ。本当は親父の仕事を誇りに思っていたのかも知れない。あの頃の俺はお袋の死にうろたえ、誰でもいいから当たり散らしたかったんだな。ガキだったから。

 入隊して厳しい訓練と生活を重ねるうち、親父の仕事に対する情熱も理解できるようになった。そしてお袋の死目に会えなかった無念さ、悔しさ、悲しさもな。俺も一旦任務に就いたら、家族にもしものことがあっても帰らないだろう。恨まれようと憎まれようと、それは覚悟の上だ。

 親父、病院の先生の言うことよく聞いて、ちゃんと療養しろよ。早期のガンなんて怖くないって。完治したら親父が行きたがっていたアルプスに一緒に行こう。お袋の分まで長生きしてくれないと困るぞ。(2012年5月27日)

親父 68歳・警備員
息子 38歳・自衛隊員