「14歳立春式」で、ちょっと大人になった気分だよ


 お父さん、この間お見舞いに行ったとき、顔色もよくて元気そうだったので安心したよ。このまま順調にいけば、退院も早いよって、病院の先生も言ってくれ、お母さんもにっこりして僕もほっとしました。

 中学の「14歳立春式」に出てきました。今は20歳が大人の仲間入りだけど、昔は14歳で大人として認められたんだね。元服といって儀式をしたらしいけど、僕の中学でも大人としての自覚、心構えを持ってもらうため、この立春式を毎年やってる。お父さんもこの儀式には出たんだよね。ちょっと緊張しました。

 式が終わったあと、お祖父ちゃんが親戚の人たちを家に呼んで、お祝いをしてくれました。そこで僕は親戚のみんなに「これまで温かく見守り、育ててくれてありがとうございました」と挨拶をしました。

 最初、お祖父ちゃんには反発したんだよ。「なんでみんなにお礼をいわなきゃなんないんだよ。そんこと誰もやんないよ」って。そしたらお祖父ちゃん、とても怖い顔をしてこう言ったんだ。「お前がこうして健康に生きてられるのは、お父さんやお母さんだけのおかげじゃない。町のみんなのおかげだなんだ。お前が行ってる学校、遊ぶ広場や体育館、図書館、病院、みんなが税金を払ってるからなんだぞ。みんながお前たち子供のために頑張っているんだ」。

 ちょっとショックを受けたよ。だけどよく考えてみるとお祖父ちゃんのいう通りだね。町の大人の人たちが頑張ってくれているから、僕たちは学校で学び、遊んでられるんだ。知らない人にも感謝しないとね。

 僕と同じ14歳のとき、お父さんはバイトしていたんだったね。バイト代を溜めて高校に入学し、授業料も払ったんだぞってお祖父ちゃんが言ってた。兄弟が多くいたから、お父さん、本当は中学を卒業したらすぐに東京へ働きに行く予定だったけど、どうしても高校だけは卒業したいと、バイトしながら頑張った。すごい努力家だったんだね、お父さんって。見直しちゃったよ。

 僕も大人としての自覚と心構えを持たないとだめだね。いつまでもお父さんやお母さんを頼りにしてちゃ大人とはいえない。弟や妹の面倒をみて、家の手伝いでできることは手伝うよ。勉強も頑張らなきゃね。数学と英語と化学が苦手だったけど、しっかり勉強する。そして県立の高校を目指します。高校に入学したら新聞配達のアルバイトをするつもりなんだ。朝が弱くて体も弱い僕には、いい修行だよね。バイト料も入って、少しは家計も助かるかな。

 城山公園はもうすぐ桜の季節。お父さんの退院祝いと、僕の立春式を兼ねてみんなで出かけようよ。(2012年7月1日)

父 50歳・自営業
息子 14歳・中学2年




 私を生まれ変わらせてくれた、ネットのお姉さんに感謝


 友だちを見つけるネットで知り合ったお姉さん。このお姉さんとの出会いがなければ、私、自殺していたかも。「ネット仲間なんて怪しい奴だらけだ」なんて言うけど、そんなこと偏見だよ、お父さん。

 高校に入学して間もなくイジメに会い、登校拒否、家出。無理やり家に連れ戻されると、部屋から一歩も出ないで引きこもり状態に。精神科への通院、そしてカウンセラーの先生たちのおかげで、なんとか高校に戻ったものの、どうしても同級生たちと話すことができなかった。
視線が怖いんだよ。視線が合うと、暴言を吐かれたり、暴力を振るわれるんじゃないかと怯えた。再び登校拒否。もう死んじゃいたいと思った。お父さんもお母さんも何かというと「頑張れ、負けるな」の連呼だもん。

 引きこもってパソコンに向かい、ブログに地獄のような日々を綴っていたら、あのお姉さんからメッセージが届いた。「私でよかったら協力しますよ。元気を出しなよ」って。

 メーキャップアーチストの勉強をしているお姉さんが、その日から私を改造してくれることに。起床時と就寝前に鏡をのぞくことから始めた。笑ったり、怒ったり、悲しんだりの表情を約20分間繰り返す。私の顔がどんな顔で、どんな表情が素敵なのかを自分なりに理解するため。これって結構、辛いものがあるよ。だって、私の表情って死んでたもん。これじゃあ、イジメられるよね。

 それから簡単なお化粧法。人に好印象を与えるお化粧法があるなんて知らなかった。その上で可愛くみせるヘアースタイルや洋服選びなどを、ブログを通じて教えてもらった。
 それまで私のブログには誰からも反応がなかったけど、それ以来、すごい多くの応援メッセージが寄せられ、それも励みになって私は自分改造に力が入った。必死になったよ。

 春休みが終わって、私は高校に戻る決心をした。もう人の視線も怖くなかった。「目を見るのが怖いなら、眉間を見なさい。そこにはその人の守護霊がいて、あなたを理解してくれ、その想いが相手にも通じるから」。これもお姉さんからのアドバイス。お姉さんから教わった、相手にも元気を与える表情、そして言葉で、不思議なくらい私はクラスの同級生たちに溶け込むことができたんだ。もう誰の視線も怖くなんかないよ。

 お姉さんにお礼が言いたくて、直接会いたいとメッセージ送ったけど、「実は私も人見知りなの。直接あなたと会ってお話したら、私は言いたいことも言えなくなりそう」と断られた。だけどいいんだ。ネット上だけど、私にとってはお姉さんだもん。お姉さんから教えてもらった事を、今度は私が誰かに教えてあげるんだ。(2012年7月8日)

父 47歳 精密機器メーカー
娘 17歳 高校2年




 勤め人人生を謳歌する極意、教えてくれよな


 会社生活も3年目。どうにかこうにか仕事にも慣れたけど、3年目の憂鬱ってやつだろうか、ナンとなく何もかもがダルく感じるようになってきた。会社を辞めて、大学生の頃の自由な生活に戻りたくなった。

 そんな愚痴というか、会社や上司への不平、不満というか、タワゴトを、オヤジの行きつけの焼き鳥屋で語り始めた俺。てっきり、バカヤローって怒鳴られるのかと思ったら、笑顔で黙って俺の話を聞くだけ。アレレ、ちょっと拍子抜けじゃん。まあ、それでも熱く語る俺の話に耳を傾けてくれた。帰宅の道すがら、ボソっとつぶやいた一言。「会社なんてもんはいつでも辞められる。そんならもうちょっと我慢してみな」。

 それから俺も考えた。何が面白くないのか。何に不満、不平があるのか。ならば、どうしたら面白くでき、そして不平や不満が解消できるのかを。答えは簡単だった。俺が考えていること、そして抱えている不平や不満をぶちまけることだった。

 だけどこれってちょっと勇気がいる。しかしこのまま黙っていたんじゃ何も変わらない。クビ覚悟で思い切って言ってみることにしたんだ。
  
 上司や同僚、「エッ、お前どうかしちゃったの?」 みたいな顔したよ。中には「生意気言うんじゃねえよ、そんなこと言うのは10年早えよ」とか怒る上司もいたけど、俺の話をちゃんと聞いてくれるようになった。うん、俺の会社、前よりもだいぶ居心地がよくなったのは確か。

 それにしても世の中のオヤジさん連中は、我慢強いというか、シブトイというか。若造の俺が3年で仕事に飽きつつあったのに、何十年も同じ仕事をこなし、会社に通い続けているんだもんな。呆れたというのを通り越して、あんたら偉いよって誉めてあげたくなってきたぜ。

 そのせいだろうか、俺のほうからオヤジさん連中を飲みに誘うようになった。俺のような若い連中は嫌がるけど、オヤジさん連中の話って聞いてみると結構、面白いんだよな。波乱の人生があり、俺のようにふて腐れたときもあった。そしてどう乗り越えてきたのかも聞けるし。ときには口論もしますよ、仕事をめぐって。だけどこれがまた楽しいんだ。

 来年からオヤジと同じ世代の連中がゴソっと定年退職する。それまで俺はオヤジさん連中から学ばなければならないことが山ほどあることに気づいた。そう考えるとノペーと休んでらんないんだよな。残業はもちろんだけど、休日出勤もOKだからと、会社と上司に直訴。呆れた顔してたよみんな。だけど俺は真剣。実はオヤジにも聞きたいことがこれまた山ほどあるんだ。そのうち例の焼き鳥屋に誘うから、よろしくな。(2012年7月15日)

父 59歳・工作機械メーカー
息子 26歳・精密機器メーカー 




 サイパン島で、戦死したお祖父さんの冥福を祈ってきました


 父さん、夫婦水入らずの北海道旅行、楽しんでくれたようですね。母さんから感謝のメールと写真を送ってもらい、兄貴や姉貴たちも喜んでおりました。これまで僕らを育ててくれたそのほんの恩返し。これからも母さんともども、お体を大切に。

 実は僕も先日、会社の同僚たちとサイパン島へ旅行に行ってきました。サイバンに行く事を父さんに話すと辛いだろうし、悲しむと思い、これまで黙っていたのですが。

 サイパン島には僕が知らないお祖父さんが眠っています。父さんがまだ2歳のときにお祖父さんに招集礼状が届き、簡単な訓練の後にサイパン島へ出征。それから間もなく戦死の知らせが届いたとのことでしたね。父さんとお祖父さんが共に過ごしたのはわずか半年。父親とはどのようなものかを知らず、これまで生きてきた人生を思うと言葉がありません。

 以来、テレビで戦争ものがあるとチャンネルを替え、遺族の集まりにも一度も出席せず、我が家では「戦争」を話題にするのはタブーでした。そんな僕がお祖父さんの戦死と、戦争について知りたくなったのは、アメリカ人の同僚の影響です。彼の祖父もサイパン島に上陸して間もなく、日本の守備隊によって射殺されたのです。彼は言いました。「僕の祖父は君の祖父によって射殺されたのかもしれない。そして君の祖父を僕の祖父が射殺したのかもしれない。この事実を僕らは認識したうえで、戦争と平和を考え、次の世代に伝えていく義務があるのではないか」と。それからは僕なりに資料を漁り、太平洋戦争とは誰のための、なんのための戦争だったかを考えました。そして得た結論は怒りだけでした。

 同僚と訪れたサイパン島は、バカンスを楽しむ幸福そうな人々で賑わっていました。64年ほど前に、この島で日米の数万人が殺し合い、追い詰められた人々が自決、あるいは断崖絶壁から投身自殺した歴史を持つなんて、知る人は少ないでしょう。そんな人びとを横目に、僕らは日米激戦の後に建つ慰霊碑に、花を手向けて冥福を祈りました。そしてそれぞれの祖父に対して、語りかけました「愚かな戦いはもう二度としませんから」と。そのとき僕はお祖父さんの笑顔をマリンブルーの海面に見たような気がしたんです。同僚は祖父の声を聞いたような気がしたと。

 来年には僕にも子どもができます。その子に僕はお祖父さんのことと、戦争があったことを伝えていかなければならないと思っています。できれば同僚の子どもたちとも交流を持たせ、もっと考える機会を与えてやりたいとも。今度は父さんも一緒にサイパンに行きましょう。お祖父さんもきっと会いたがっていますよ。(2012年7月22日)

父 66歳・自営業
息子 35歳・外資生保



 映画監督の道は厳しくも険しいのじゃ


 ムカついた。傷ついた。頑張っている娘に対して、あの暴言ともいえる批評はないっす。しばらくはヘコんで何もする気が起きなかったよ。

 我ながらよくできたと思える自主制作のビデオムービー。仲間や先生たちに観てもらう前に、厳しい目を持ったお父さんにチェックしてもらい、誉めてもらおうと思ったのにさ。

 まあ、いいや。クソオヤジから駄目出しだされても、仲間や先生たちが誉めてくれるだろうと思ったけど、ナンだよ、クソオヤジと同じ酷評じゃん。皆さん、どうして私の映画が理解できんの? そうじゃないか。自己満足が過ぎて、診る人たちのことを考えない映画を作ってたかもね、私ってば。
 
 映画が好きになったのはお父さんとお母さんのモロ影響。二人とも子どもの頃から三度の食事よりも映画が好きで、出会ったのも映画館。作品について意見が衝突、よくケンカもしたというけど、それでもめでたく結婚。私が生まれてからも映画中心の生活は変わらなかった。

 私、勉強するよりも、映画を観てる時間が長かったもんね。それでも二人はなんとも言わなかった。そのうち作品について私も議論に参加、朝までやりあったこともしょっちゅう。そして高校1年生のとき、30分のビデオムービーを作ったところ、お父さんの知り合いの映画関係者に「この子は監督に向いているかもしれない」と誉められ有頂天。ホイホイと映画学科のある大学へ進んだ。

 大学に入学してからは勉強とバイトの明け暮れ。同じ志を持つ仲間たちとバイト代をつぎ込んで、何本もの自主映画を制作。方針やら演出方法、シナリオをめぐってよくケンカする。コキオロされることもしょっちゅうさ。そんな不平、不満をボヤいたら「映画とは総合芸術である。撮影現場は、人間修行の道場でもあるのじゃ!」と厳しいご指摘。

 こんな調子で、私がヘコたれる度にお父さん、お母さんの叱咤激励。そのおかげで大学生活もなんとか続けることができたんだけどね。そしてようやく改心作が完成。それなのにボロクソ言うんだもんな。加えてどいつもこいつも。ったく・・・。

 メゲない、メゲない。これも監督修行の第一歩。たかだか身内にけなされたくらいでヘコんでちゃあ、監督なんてやってらんないよね。監督業なんてもんは、出演者やらスタッフ、それにスポンサーをまとめ、場合によってはその連中たちと一戦交える覚悟がなければ、とてもできるもんじゃないしさ。まあ、今のうちからお父さんやらお母さん、それに仲間たち、先生たちから叩かれておくのもいいかも。ちょっとやそっとじゃヘコたれない、打たれ強さも身につけておかないとね。(2012年7月29日)

父 54歳・広告代理店
娘 23歳・大学3年生