俺はやるぞ、日本から貧困を撲滅する活動を!


 オヤジよ、余計なことすんなっちゅうの。俺と彼女とはあくまでも友だちであって、結婚なんて考えたこともない関係なんだよ。それなのに彼女を呼び出し、「早く結婚してくれたら、アイツも落ち着くと思うんだがね」だと。彼女も呆れてたよ。

 確かにオヤジには迷惑かけっぱなしだ。大学院まで出してもらい、一流企業に就職したものの、組織や人間関係に馴染めず半年で退職。それからはフリーター生活一直線。ゴッチャゴチャとうるさく言うオヤジと何度も乱闘騒ぎ。パトカーまで飛んできたこともあったな。

 そんな俺が気紛れで旅行したのが東南アジアの各国。所持金なんてほとんど持ってなかったから、野宿したり、バイトさせてもらったり、頼み込んで泊めてもらったりの生活。しかし、これが気に入ってしまった。
     
 どんなに貧しくても、貧しいなりの知恵と工夫、逞しい哲学で、苦境を乗り越えようと必死に努力している人びとの姿に感動してしまったのだよ。以来、バイトで金を貯めては、中南米、中東と、旅先の距離は伸びていった。同時に、家族や兄弟のような絆を結んでくれる人々も増えた。

 帰国するたびに思う。日本人は貧乏と困難に立ち向かう知恵と工夫、勇気と明るさが足りないのではないかと。そして相互扶助という意味を理解しているのかと。

 そんな話を俺と同じような生活を送っている連中としていたら、閃いたのさ。俺たちの持っている世界中の人脈を駆使し、NPO形式の「世界貧乏人ネットワーク」を作ろうって。狙いはどんなに貧乏であっても、貧しさに負けない知恵と工夫の共有と啓蒙活動。先ずはアジトを作り、企業などから中古のパソコンを無償提供してもらい、それを世界各国の仲間に送る。そして物、金、人の情報を収集・受信すると同時に発信もしていく。利益が出たらグラミン銀行のように、起業を志す人々に資金を融資して利益を分配してもらう。当面の目標はそんなところだ。

 そんなもんで喰っていけるのかって? 心配すんなって。いいんだよ、なんとか食べていければ。もしかしたら俺たちの僅かな融資で超ビッグビジネスが生れるかもしれないじゃん。夢を持ち続けていたんだよ、俺たちは。そして少しでも貧困や格差が解消できれば上出来ってもんだ。

 まだよく理解できないってか?
そのうち俺たちの活動を見ててくれれば分かるって。オヤジの期待には添えなけど、馬鹿な息子なりに将来のことを考えているんだよ。心配と迷惑を今後もかけ続けるけど、もうちょっと見守ってくれよな。(2012年8月5日)

父 61歳・税理士
息子 30歳・フリーター


 いつまでも、家族仲良く暮らしていこうよ


 来年は高校受験。だから、お父さん私の顔を見るたびに勉強しろ。耳タコだっつうの。それにいくら勉強したって、私が希望する私立の高校は無理じゃん。入学金と寄付金、授業料もバカ高いし、払えないもんね。サエない近所の都立高しか行けない。

 グダグダ言い争うのもカッタるいから、近所の図書館でお勉強。まあ、家にいるよりは快適だわ。冷房ガンガン効いてるしね。おかげで勉強にも集中できた。ただし妹の世話には泣かされたよ。勉強ほったらかしで友だちと騒ぐわ、私に黙って外出するわでさ。図書館の係りの人にずいぶんと迷惑かけたんだよ。まだ7歳だから仕方ないといえば仕方ないか。

 我が家に戻ると暑いのなんのって。エアコンを使うのはお父さんが帰宅する夕方の6時から。それも居間だけ。電気代が馬鹿にならないから。私と妹の部屋だけでなく、お父さんとお母さんの部屋もエアコン禁止だもんね。こんなんじゃ寝れないよってブーブー言ったら、全員、居間で寝ることになった。カンベンしてよ。

 喜んでたのは妹だけ。お父さんとお母さんの間に挟まれ、まるで赤ちゃんみたいに甘えてさ。お話をおねだりしたり、稲川淳二の怖いビデオを見てはキャーキャー騒ぎ、一人でトイレに行けなくなったり。だけど、そんな光景を見ていたら、なんか昔のことを思い出しちゃった。私も妹と同じ年の頃には、こんなことしてはお父さんとお母さんに甘えてたもんね。最近じゃ、お父さんもお母さんも忙しくて、妹はほったらかしの状態だったから、良かったかもよ。

 2DKのボロアパートから、中古だけど一軒家を買ってくれ、それぞれに部屋を持てた私たち。だけどそれからなんとなく私たちは会話が少なくなったね。家のローンを払うため、お父さんもお母さんも、残業や休日出勤が多くなった。食事を一緒に食べることも少なくなったしね。妹もなんかあると口答えやら、イライラするようになっちゃって。ちょっとマズいなと思ってたんだよ。だけどこの夏で家族の仲が元に戻ったような感じ。これは収穫だったかも。

 家のローンを支払い終えるまであと23年。ため息が出るよ。私、37歳になってるじゃん。妹は結婚してとっとと家を出てってもいいけど、長女の私はそんなことできないもんな。私なりに責任を感じてるんだ。家を買ってと言い張ったの私だから。
  
 私もなんとかしないとね。高校に入学したら私もバイトを探して働くよ。それと大学は諦める。その代わり妹を大学に行かせてあげよう。それとさ、お父さん、決して無理しないでよね。働き過ぎて倒れられたら大変だもん。貧乏でも家族仲良く、明るくが一番だと思う今日この頃。(2012年8月12日)

父 46歳 家電販売
娘 14歳 中学3年




 継続は力なり、諦めず、コツコツだね


 お父さん、文学賞の受賞おめでとう。知る人はほとんどいない、地方都市の文学賞の新人賞だけど、よく頑張ったね。これまでの苦労を、小説の神様は見捨てなかったみたい。

 お父さんが小説を書き始めたのは、今から20年ほど前になるのかな。言語障害を持っているにもかかわらず、お父さんは幼い私に童話や昔話を聞かせようとしてくれた。私はお話の内容よりも、お父さんの人とは違ったしゃべり方を面白がっただ。

 だけど小学生になって、ようやくお父さんの障害が理解できるようになり、お父さんのお話を嫌がるようになった。聴いていて辛いんだもん。淋しそうな、悲しそうな顔が今も思い浮かんでくるよ。残酷な娘だよね。

 お話は止めたけど、その代わりよく読まされるようになったのが、手紙。というか、童話のような、小説のような、エッセイのような手紙。びっくりしちゃった。だってお父さん、とっても文章が上手なんだもん。気持ちがストレートに伝わってきて、ときには笑ったり、ときには泣いたりもした。それを誉めたら、「お、お父さん、しょ、小説家、に、なれるかな」って。無責任に頷いた私。

 お爺ちゃんもお婆ちゃんも、お父さんのこと誤解してるんだよ。言語に障害はあるけど、知的にはなんの障害も問題もないってことが。それなのに中学を出てすぐに印刷工の修行に出された。他の兄弟はみんな大学まで出してやったのに。

 だけどそれでも不平、不満、グチもこぼさず、一人前の印刷工として私たち家族を養うまでになった。お酒、煙草、ギャンブルとは無縁。暇さえあれば、部屋にこもってコツコツと小説を書き続け、懸賞募集に応募した。だけどいつもボツ。普通の人なら自分の才能に見切りをつけて、小説を書くことなんか断念するんだけどね。それでもお父さんは諦めなかった。「い、一作ごとに、コ、コツのようなものが見えてきた」って。そしてようやく努力が報われた。

 お父さんは私がいたから書き続けられた。私に感謝しているって言うけど、私こそお父さんに感謝だよ。決して諦めちゃいけないことを教わったんだもん。「継続こそ力なり」って言葉を、身をもって教わった。

 お父さんをガッカリさせたくなくて言わなかったけど、私さ、今の仕事に見切りをつけようか迷っていたんだ。いくら頑張ってもなかなか芽が出ないんだもん。後輩たちからもどんどん抜かれていくしさ。転職を考えていたところなんだよ。

 でも、そんな考えは止めた。お父さんを見習わなくちゃ。眼が出ないのはまだまだ発展途上の証拠。修行の時期なんだよね。歩みは遅いけど、着実に自分の夢に向かって進むよ。(2012年8月19日)

父 印刷工・58歳
娘 アシタントカメラマン・32歳


 誇り高いサラリーマンだったよ、オヤジは



 オヤジ、長い間のお勤めごくろうさん。そして独立、再出発おめでとう。第二の人生、頑張ってくれよな。

 今から10年も前になるのかな。オヤジの会社では派閥抗争が激しくなり、オヤジが属していた派閥は敵対する派閥に敗北。報復人事というやつで、オヤジが属していた派閥の連中は、ほとんど全員が窓際に追いやられたり左遷されたり。そんなやり方に反対する社員は簡単にクビを切られたりと散々。

 普段は仕事や会社の話をしないオヤジが、随分と弱音を吐いたから、「そんな会社なんてとっとと辞めちゃえよ」と、無責任に言い放った俺。オフクロや婆ちゃんなど家族を背負っていて、簡単には辞められないことを知っていながらの暴言だった。

 その頃の俺は寿司屋で修行中の身。会社勤めなんてハナっから嫌っていた。一人前の寿司職人になって店を持つことが男らしさだと思っていた。 たまに家に帰って見るオヤジは老けていく一方だった。苦労の連続だったもんな。2年おきに地方の支店に回されるわ、子会社に出向すれば年下の上司にいじめられるわ、本社に戻ればしつこく退職を迫られたり。急性胃潰瘍で3回入院。白髪が増えたうえに円形脱毛症も目立った。そんな目にあっても辞めないオヤジ。呆れたというか、男気のなさに男として情けなさを感じていたんだ。

 しかしオヤジは必死になって戦っている最中だった。敵対派閥が会社で幅を利かせるようになってから会社の雰囲気は悪くなり、社員の定着率も低くなる一方で、売り上げも急速に落ちた。危機感を持ったオヤジたちは大株主や取引先、銀行などに、経営危機に陥った原因と理由を訴えた。それを知った敵対派閥はまたまた反撃に出たり、潰しにかかった。10年間はその繰り返し。よくもまあ長い間、つまらない抗争を続けたもんだと思うよ。

 地道な根回しや説得工作が功を奏したのは2年ほど前から。敵対派閥の主だった連中は辞職を迫られたり、自主退職してようやく会社も平穏を取り戻し、売り上げも徐々に伸びてきた。功労者であるオヤジには取締役の声がかったけど、それを断った。自分が幹部として残る限り、また報復や抗争が再燃するだろうと。だから退職して独立の道を選択。

 息子がもし勤め人になろうとしたら、俺は止めるだろうだろうな。それでも勤め人を目指すなら、オヤジの話を聞かせるよ。誇りを失わずに、男として組織でどう生き抜いてきたかをな。(2012年8月26日)
父 59歳・コンサルタント
息子 32歳・寿司職人


※「拝啓オヤジ アーカイブス」は、今回で前半を終了させていただきます。後半は来年度(何月からは未定)を予定しております。