八戸自由大学第6回講座より抜粋


講座名

 「マタギの文化遺産に学ぶ」 第2回 ~山立の戒律と禁忌のついて~


講師  葉治英哉氏

葉治英哉氏プロフィール  
昭和3年青森市生まれ。青森師範学校本科を病気中退。のち通信教
育で法政大学日本学科を卒業。森林組合、国家・地方公務員、会社役員を経て執筆に専念。平成2年「戊辰牛方参陣記」で第37回地上賞受賞。平成6年「マタギ物見隊顛末」で第1回松本清張賞受賞。平成6年八戸市文化賞。平成22年八戸市文化功労賞。日本文藝家協会会員。日本ペンクラブ会員。著書に「春またぎ」(文藝春秋社)、「松平容保」「今村均」「張良い」(PHP研究所)、「定年奉行仕置控」など。他に「オール読物」「別冊文藝春秋」「歴史読本」などに小説、エッセー、評論、評伝などを発表。

講座より抜粋

山立(やまだち)からマタギへ

かつて、山から山へと渡り歩き、弓矢や槍を手にして狩りをし、時には人里に下りてきて獲物を米などと交換していた山立と呼ばれる人々がいた。これらの人々はやがてマタギと呼ばれるようになった。いつごろから山立と呼ばれるようになったのかは、文献が少ないので断定できない。

旅行家で民俗学者の菅江真澄の『遊覧記』に、マタギに関する記述があるので、すでに二百年前にはマタギと呼ばれていた。また、南部藩家老日記『雑書』に、山立三四郎云々の記述の2年後(1654年)から、マタギという名称が用いられていることから、真澄の記述の150年も前にはマタギの呼称は定着していたと思われる。

山立とマタギの用例の変化は、主に奥羽山脈を移動しながら、狩猟を専業にしていた者を「山立」と呼び、山麓などに定住するようになった者たちを「マタギ」と呼んだものと思われる。

マタギは多く組を結成し、仲間で山に入り、山小屋などに寝泊りして熊を最大の獲物とした。熊は毛皮、肉、骨をはじめとして捨てるところがなく、もっとも高値で売れたのが熊胆(くまのい)である。一匁(もんめ)が金一匁と同価値だったといわれ、万能薬として広く珍重された。

「萬日記」とは、三戸在住の御給人、石井家が何代にもわたって書き続けた日記だが、この石井家は三戸代官所の熊胆皮(ゆうたんぴ)吟味役、いよゆる「マタギ奉行」だった。日記には五戸や野辺地に勤務で赴き、帰宅した際には代官所や親戚に熊の肉を届けた記述がある。


マタギの独特な戒律と禁忌

マタギ組は統領(シカリ)を頭にして、射手(うちて)、勢子(せこ)などで構成されたが、平生はたがいに束縛し合わない緩やかな組織体だった。だが、山に入り狩猟となると、統領の命令は絶対であって、誰も異議を唱えることはできなかった。獣の命を頂戴して生計を維持しなくてはならぬことでの畏怖や、山や断崖などに住むと信じられていた山の神への敬虔な思いや、山の神に忌避されて命を落とすなど、不首尾に終わることを極力避けるためである。絶対的な権力を頭に持たせることで危険と混乱を避けることが最大の目的である。

狩猟の際、同行を許されない者がいた。死者が出た家の者、出産のあった家の者、病人のいる家の者などである。山の神や穢れ(けがれ)と関係があるようだ。

山に向かう前に、マタギは狩りの無事と安全、大猟を祈願し、全員揃ってお参りした。
山に入ったら里の言葉は使わず、マタギ言葉を使う。女の話や色話のたぐいは禁止だった。山の神は二目と見られぬ醜女(しこめ)で、かつ嫉妬深いと信じられていたからだ。また、山小屋で歌を歌うのも禁じられた。山の神は歌がたいそう好きで、一度歌を歌ったら、歌い続けることを求め、断ると危険に晒されると信じられていた。さらには口笛も禁止されていた。神主や坊主の話もご法度だった。山の神とは宗教的にライバル関係にあるからだ。里で留守となった家では、仏壇の鉦を鳴らすこともできなかった。

山小屋では統領の背後を歩いて通ってはならなかった。背後を通りすぎる場合には、四つんばいになって通り過ぎた。また、統領が夢の話をした後に夢の話をすることは許されたが、自分から夢の話をすることは許されなかった。食事の際には汁かけ飯は禁止され、酒、煙草も駄目だった。これらの戒律を犯すと水垢離という罰が待っていた。とはいうものの、真冬の水垢離は命を落とす危険もあるので、笹の葉を水に濡らし、それで体を叩いた。