八戸自由大学平成24年度第7回講座より抜粋

講座名

「日本人だもの、生涯短歌をひとつ残そうよ」

講師  黄綿渓湖(きわたけいこ)氏

講師プロフィール   
歌人、北奥羽短歌協会理事。昭和18年野辺地町生まれ。野辺地高校卒業。弘前大学教育学部卒業(哲学専攻)。八戸工業高校、八戸北高校、県総合学校教育センター教育相談課指導主事、八戸中央高校、南部工業高校など公立高校勤務。 短歌歴としては昭和48年短歌結社「国原」入門、稲垣浩氏に師事。昭和54年度国原賞受賞。青森県歌人懇話会会員、ふるさとの言霊で短歌を謳う会主宰など。

講座より抜粋

1部 「ふるさとの歌人たち」  小春日歌碑巡り  
ふるさとにゆかりの深い歌人の歌碑を尋ねて、それを撮影した。

稲垣浩 (明治30年~昭和53年)  南郷村生まれ。教育者。相馬御風、窪田空穂に師事。短歌
結社「国原」を創始する。「芝はらに  ね転がり聞く  波のおと  吾をひき入れ その音とする」  
八戸市の種差自然公園。稲垣浩第二歌集「夏の種差」所収。浩短歌の基本、すなわち人間と自然
との一体感を詠む75歳の作。


木村靄明(あいそん) (明治32年~昭和41年)  階上町に生まれる。八戸市小中野に木村書店を開く。朝日歌壇・島木赤彦選の入選を機にアララギ入会。初代文化協会長。階上岳大開平に黒御影石の歌碑。「乳呑ます  牛のまなこに  ふるさとの  山はさかさまに  映りてゐにけり」


佐々木章村(しょうそん)  (大正13年~昭和18年)  「暁星会」結成。「啄木の再来ではないか」と霞村は思ったそうだ。カトリック信者。八戸市東霊園に建つ歌碑は、十勝石に歌友である山根勢五氏の筆。「秋雲の  かがやきゆけば  吾が立てる  芒の道をはろかならしむ」


寺山修司 (昭和10年~昭和58年) 三沢市生まれ。「チエホフ祭」で短歌研究新人賞受賞。三沢
市の寺山修司記念館の丘に歌碑が建つ。「マッチ擦る  つかの間  海に霧深し  身捨つるほど
の祖国はありや」  「一粒の  向日葵の種  まきしのみに  荒野をわれの  処女地と呼びき」
「君のため  一つの声と  われならん  失いし日を  歌わんために」


大塚大(ひろし) (昭和26年~昭和50年)  八戸市白銀に生まれる。二松学舎大学に入学。「卓燈火」で角川短歌賞候補に。コスモス短歌会勤務の後帰郷し、デーリー東北新聞社に勤務。不慮の事故により絶筆。遺歌集「野分けの音す」に大塚世界を偲ぶ。「まぼろしの  如く蕎麦咲く  ふるさとの  畑を恋ひつつ  飯たくわれは」  新井田の福鄹山大泉院大塚家の墓地に建つ。



二部  「短歌の作り方、楽しみ方」 
   

① 日本人の嗜みのひとつである短歌
   
 世界の文藝で短歌や俳句は、国際大会が行われたり、英語の辞書にも「ザ・タンカ」として載せている。国際交流ではむつ市の中学生徒が、アメリカのギルロイ市を訪問した際、そのときのお土産として、下北ヒバの短冊に、寒立馬の歌をしたためたものを贈り、とても喜ばれた。

② 己の生涯を自伝短歌に残そう

  デイケア施設に頼まれて、通所者の自伝を傾聴し、喜怒哀楽のひとコマを、語り部に替わって短歌に詠み、短冊や色紙にしたためた。これを「自伝短歌代詠」として創案、喜ばれた。

その詠草例
「新妻と 長野の現場に 赴きて ブルドーザーで ひがな稼ぎし」
「東京の 大空襲を 生き残り 飯島きよは 八十四なり」
「武翁桃と 林檎を切り捨てて レクラークに替え 息子に託す」
「兵役は 騎兵の馬の 世話なりき 蹴るや噛むやの 性悪居りき」
「国鉄の 高岩保線区 守り抜き 我が汗の染む 鉄のレールに」
「大湊の 海軍基地に 務めいし 夫と疎開せり 米軍来る前」

③ 作歌の実習
   
 これまで一景の短歌も作った経験のない日本人が、今、生涯で一景の歌人になるときに臨む。
作歌のコツとしては、三十一文字に込める「私の生涯」。歌の題とその原料を自選する。
季語と切れ字(や、かな)は俳句の技法なので、短歌の場合はそれらを無用とする。
新カナ使いか、旧カナ使いか、そのどちらかに統一する。
短歌は一人称の文芸なので、述部の主体である「我、私」を略してもよい。
心模様を謳うのが短歌だが、主観論を安易に用いると、読者には共感を得られず、自己本位の作品になってしまう。
仕上げとして「推敲」を怠らないこと。誤字、脱字、文法の間違いがないか、ときには辞書、文法活用表などで確認する。そしてもっとも大切なことは「勇気をもって発表する」ことである。

参加者の作品

「芳しき すずらんの香に 魅せられて 友を招かん 種差の径」(正典) 

「ハンドルの 右に左に もみじ色 寒さの前の 天の恵みか」(淑女)

「ひ孫抱き 紅葉の手をば にぎりつつ 孫も想わる 傘寿をこえり」(政子)