八戸自由大学第8回講座より抜粋

講座名
「宮沢賢治を語る」~まことの道を実証しようとした賢治せんせい~

講師・菊池武氏(元八戸市教育長)

講師プロフィール 昭和19年青森県上北郡百石町生まれ。岩手県立花巻北高校卒業。東北大学教育学部卒業。八戸市立江陽小学校校長、同市長者中学校校長などを歴任。八戸市教育委員会教育長(平成14年~18年)。

講座より抜粋

はじめに
ふるさとの恵みを心底喜び、かつふるさとの生きる背景の厳しさを誰よりも心配した実践の人、宮沢賢治。倒れてなお、ふるさとの未来の輝きに向けて、恵みと困難の人々を鼓舞せんと生き抜いた37年の生涯の人、宮沢賢治。

職人教師・・・人間教師の品性を高める原点を宮沢賢治の生き方に求めたとき、これからの教育の展開方向が見えるのではないかとして、接近し続けることを試みて「それぞれの宮沢賢治のひとりとしての己たらん」と、まことの道への希求を、二人三脚させてもらった人、宮沢賢治の一端でも語ることができたらと、今回の講座を引き受けさせていただきました。

教育者として、ずっと側にいてくれた作品世界の主人公たち「よだか」「虔十」「風の又三郎」「デクノボー」にどれだけ励まされたことか。語り部としてではなく、「伝え部」として、若い人々に、これからの人々に、宮沢賢治を通じての「ふるさと」「まことの道」をリレーしていきた。資料、作品集のなかから彼の言葉を紹介しつつ「道の実践者」としての賢治を解説していきます。

花巻農学校時代
  教師 賢治せんせいとして
「生徒たちはみんな新鮮だ(台川)」 「それはぼくといっしょに行かう」(イーハトーボ農学校の春)「私たちはどうにかしてできるだけ面白くそれをやらうと思ふのです」(イギリス海岸) 「音楽演劇を通じて、自分の心のなかにある感動を、言葉や動きでアピールしてみることを音楽演劇教育で図った」(植物医師など)

〇揺らぐ思い
「私もいつまでも宙ぶらりんの教師など生温かいことを・・・」(杉山芳松あて) 「来春は私も教師をやめて本当の百姓になって働きます」(保阪嘉内あて)

〇教師を辞する
「この四年間は私にとって じつに愉快な明るいものででありました」(春と修羅) 「この四年間が 私にどんなに楽しかったか 私は毎日 鳥のように教室でうたってくらした」(生徒諸君に寄せる)

羅須地人協会で  地人・農業技師・営農指導者の賢治
〇自宅から下根子桜に転居  独居、自炊、開墾自耕  「もう厭でもなんでも働かなければならなくなりました」(森佐一あて)

〇羅須地人協会設立(大正15年旧盆)
「羅須地の人タルベシと読み、阿修羅も農民のなかに入るべきだ」(宮沢賢治記念館から) 「今年は設備がなにもなくて、学校らしいことはできません。けれども希望の方もありますので、まづ次のことをやってみます」(集会案内より) 「やっぱり著述はエスペラントによるのが一番だとも云いました」(父あて)

〇無料肥料設計事務所 講演指導 実践の日々
稲作施肥計算資料と実際  「君が自分で設計した あの田もすっかり見て来たよ 陸羽一三二号のほうね あれはずいぶん上手に行った」(あすの田はねぇ)

〇揺らぎも  「あらゆる失意や病気の底で 私もまたうなづくことだ」(土も掘るだらう)

〇それでも  「東にうかんだ黒と白との積雲製の冠を・・・」(私は今日死ぬのであるか)

〇誠の貫徹の人~背景に置いたもの~ 学び得ていたこと 「農民芸術概論」他 託す希望こそが「たけにぐさの群落にも 風が咲いているということである」(疾中)

療養の日々
東北砕石工場で 大地の可能性への導き人・宮沢賢治
「小生に対して東北砕石工場技手または技師の辞令を交付し・・・」(鈴木東蔵あて)  「この一生の間どこのどんな子供も受けたことのないような厚いご恩をいただきながら・・・」(東京より両親あて) 「恢復さへ致さば必ず外交も致し」(鈴木東蔵あて) 「石灰を用ひたる陸稲生育宜敷由承り誠に欣快存候」(鈴木東蔵)

思索の根底とした仏教思想~断ジテ教化ノ考エタルベカラズ~
「タノム所オレノガ小才ニ非レ。タダ諸仏菩薩ノ冥助ニヨレ」(雨ニモマケズ手帳) 「私の生涯の仕事はこの経をあなたのお手元に届け、そして其中におる仏意にふれて、あなたが無上道に入られますことを」(兄のトランク) 「病のゆえに朽ちんいのちなり みのりに棄てばうれしからまし」「おれもとうとうお父さんにほめられた」とうれしそうに笑ったのであった。九月二十一日午後一時三十分であった(兄のトランク)

※ 宮沢賢治の砕石工場時代については以下のホームページをご参考に

http://www.jplime.com/bunkaisan/002/index.html