平成25年度第1回講座より抜粋

講座名

 武士の義に生きた幕末の名君 松平容保

講師  葉治英哉氏

葉治英哉氏プロフィール  
昭和3年青森市生まれ。青森師範学校本科を病気中退。のち通信教
育で法政大学日本学科を卒業。森林組合、国家・地方公務員、会社役員を経て執筆に専念。平成2年「戊辰牛方参陣記」で第37回地上賞受賞。平成6年「マタギ物見隊顛末」で第1回松本清張賞受賞。平成6年八戸市文化賞。平成22年八戸市文化功労賞。日本文藝家協会会員。日本ペンクラブ会員。著書に「春またぎ」(文藝春秋社)、「松平容保」「今村均」「張良い」(PHP研究所)、「定年奉行仕置控」など。他に「オール読物」「別冊文藝春秋」「歴史読本」などに小説、エッセー、評論、評伝などを発表。

講座より抜粋

松平容保とは

天保6年(1836年2月15日)に江戸の四谷にあった高須藩邸で美濃国高須藩主・松平義建の六男として生まれる。母は側室の古森氏。弘化3年(1846年)に叔父の会津藩8代藩主・容敬(高須松平家出身)の養子となり、嘉永5年(1852年)に家督を継ぐ。万延元年(1860年)に桜田門外の変が起こった際には、水戸藩討伐に反対し、幕府と水戸藩との調停に努めた。

京都守護職就任

文久2年閏8月1日(1862年9月24日)に京都守護職に就任する。はじめ容保や家老の西郷頼母ら家臣は、京都守護職就任を断わる姿勢を取った。しかし政事総裁職・松平春嶽が会津藩祖・保科正之が記した『会津家訓十五箇条』の第一条「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在である」を引き合いに出すと、押し切られる形で就任を決意した。最後までこの遺訓を守り、佐幕派の中心的存在として戦い、幕府と運命を共にした。

会津藩御家訓15カ条と保科正之

 会津藩の藩祖・保科正之は、徳川2代将軍秀忠の庶子。織田信長の姪にあたる正室「江」に気兼ねして、秀忠は、乳母の侍女「お静」が秀忠の子「幸松丸」をみごもると江戸城から出してしまった。幸松丸は乳母のはからいで、武田信玄の重臣だった穴山梅雪の未亡人に養育され、信濃高遠城主の保科正光の養子となり、保科正之と改名。高遠藩を継ぐが、出羽山形20万石に報じられ、会津23万石に転封。会津は奥州の入り口に位置し、東北・越後の有力外様大名に対して、将軍の親族である親藩大名がにらみをきかせ、江戸を守る形になった。ここに会津松平家の歴史が始まる。なお、保科正之は、「松平」姓を名乗るよう幕府から勧められるが、養家保科家への義理を重んじ、固持したまま世を去りった。3代藩主の時に、保科から松平へ改姓する。

 その会津藩の藩祖・保科正之は、家老宛という形で、15箇条の家訓を遺した。以後、会津藩家訓となる。その第1条に、(徳川)将軍には一心を持って忠勤に励み、他藩の動向に関係なく、忠節を尽くさなければならない、もし将軍に二心を抱く藩主がいればもはや自分の子孫ではない、家臣もそんな藩主に従う必要はない、などと定められている。幕府や将軍にもしもの時があれば、他藩の動向に関係なく、会津藩は幕府や将軍に忠節を尽くさなければならないという内容で、幕末の会津藩主・松平容保(かたもり)は、この会津藩家訓の重んじて、会津を滅亡へと導く「京都守護職」を引き受けたともいわれている。


京都守護職に就任した容保は、12月に会津藩兵を率いて上洛した。そして、孝明天皇に拝謁して朝廷との交渉を行い、また配下の新選組などを使い、上洛した14代将軍・徳川家茂の警護や京都市内の治安維持にあたった。会津藩は幕府の主張する公武合体派の一員として、反幕派の尊王攘夷と敵対する。八月十八日の政変では長州藩の勢力排除に動き、孝明天皇から容保の働きを賞揚する宸翰(天皇直筆の手紙)と御製(天皇の和歌)を内密に下賜された。

慶応3年(1867年)に15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行い、江戸幕府が消滅すると同時に、京都守護職も廃止された。その後、鳥羽・伏見の戦いが勃発し大坂へ退いていた慶喜が戦線から離脱するのに従って、弟の桑名藩主松平定敬らとともに幕府軍艦で江戸へ下った。慶喜が新政府に対して恭順を行うと、江戸城など旧幕臣の間では恭順派と抗戦派が対立し、会津藩内でも同様の対立が起こった。

「義」を貫くために会津戦争へと

容保は会津へ帰国し、家督を養子の喜徳へ譲り謹慎する。西郷隆盛と勝海舟の会談により江戸城が無血開城されると、新政府軍は上野戦争で彰義隊を駆逐して江戸を制圧し、北陸地方へ進軍する。

容保は幕府派の重鎮と見られて敵視され、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の中心として新政府軍に抗戦して会津戦争を行い篭城するが、その後新政府軍の降伏勧告に応じ、抗戦を主張する佐川官兵衛らに降伏を呼びかける。その後は鳥取藩に預けられ、東京に移されて蟄居するが、嫡男の容大が家名存続を許されて華族に立てられた。

容保はそれから間もなく蟄居を許され、明治13年(1880年)には日光東照宮の宮司となった。正三位まで叙任し、明治26年(1893年)12月5日に東京・目黒の自宅にて肺炎のため死亡する。享年59。

死の前日には明治天皇から牛乳を賜った。なお、容保は禁門の変での働きを孝明天皇から認められその際、宸翰と御製を賜ったが、それらを小さな竹筒に入れて首にかけ、死ぬまで手放すことはなかったという。また会津戦争については周囲に何も語ることはなかった。ここに容保が天皇家、徳川家に尽くし「義」を貫いた人生が垣間見れる。

昭和3年(1928年・明治維新から60年目)、秩父宮雍仁親王(大正天皇第2皇子)と松平勢津子(容保の六男・恒雄の長女)の婚礼が執り行われた。会津松平家と皇族の結婚は、朝敵会津藩の復権であると位置づけられているといわれる。