八戸が生んだ傑僧 西有穆山

 

八戸自由大学第6回講座より抜粋

講座名
「八戸が生んだ傑僧 西有穆山」 ~今こそ無私の生きかたに学ぶ~
第1回 穆山和尚、全国の僧侶を叱る

講師・伊藤勝司氏(西有穆山禅師顕彰会副会長)

講師略歴
 昭和19年、満州国大連市生まれ。昭和41年弘前大学教育学部卒業と同時に八戸市立湊中学教諭に採用。平成11年八戸市立湊小学校校長。西有穆山禅師の研究を始める。同19年八戸市史編纂委員、現在に至る。

講座より抜粋

西有穆山(にしありぼくざん)禅師とは

 文政4年(1821)八戸の湊町で生まれ、本名は笹本万吉。天保4年(1833)に出家し金英と名乗った。名川の法光寺や仙台の松音寺などで修行を積んだ後、13年に江戸に出て駒込吉祥寺の栴檀寮(せんだんりょう)に入り、学業と修行に励んだ。

 弘化元年(1844)に牛込鳳林寺(ほうりんじ)の住職となるが、曹洞宗の根本経典である「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」を学ぶため、小田原海蔵寺(かいぞうじ)の月譚(げったん)和尚に入門し、12年間の修行生活を送る。

 明治34年(1901)に曹洞宗の大本山である總持寺(そうじじ)の貫首となり、同年に明治天皇から「直心浄国(じきしんじょうこく)」の禅師号を賜った。翌年には青森県人として初の曹洞宗管長に就任した。

 東京・横浜やシンガポールなど、開山開基の寺や住職を務めた寺は数多く、八戸でも光龍寺や常現寺などつながりのある寺が存在する。また、「正法眼蔵私記」、「正法眼蔵読紘講義」などの著書や、禅の修行で得られた悟りの境地を表現した墨跡や禅画などの作品を数多く残した。旭ヶ丘に西有公園が整備され、銅像が建立されている。(八戸市HPより)

1 西有穆山とはどんな人?
  八戸に生まれた人。八戸の偉人。前半生は江戸時代、後半生は明治時代に生きた高僧。曹洞宗の管長(最高位)を務めた。長寿で90歳まで生きた。功績についてはあまり知られてない。

2 穆山の両親
 母(なお)は、近所から鬼婆と呼ばれるもののしっかり者で気丈婦。父(長次郎)は近所でも評判の情け深い心を持った「仏の長次郎」と呼ばれた。穆山の幼名は万吉。

3 出家の動機
 母の実家の菩提所願栄寺で地獄極楽を見る。母を極楽に行かせることを決意。しつこく寺に入ることを訴え、願う。

4 母との約束
 出家の際に母と交わした約束(学問に励み、徳を積んで日本一の僧侶になること)。出家後の名は金栄。師匠の金竜和尚から一字をもらう。

5 苦学の連続
 母との約束を果たすため、学問に励むが、八戸には師匠がいないことに気づく。そのため江戸に出ることを決意。天保の飢饉の最中、歩いて仙台に行く。仙台に1年余り滞在、その後江戸へ。金がないので本屋で立ち読み、あまりの熱心さに店主は持ち帰りを許す。仏典、四書五経などのなかで、とくに心に留めたのは「正法眼蔵」。

6 人に出会う強運 人を見抜く才能
 曹隆大和尚との出会い。曹隆師は八戸松館の大西家出身で、清廉潔白な人。師は金栄(穆山)の素質を見抜き、立職(元来から日本曹洞宗で用いられている用語であり、結制安居首座となることを、立職や立僧立身という。『曹洞宗宗制』では、「立身」が用いられる)させる。嗣法(しほう・法統を受け継ぐこと。弟子が師の法を継ぐこと。禅家でいう)は、曹隆師の弟子泰禅師から受け、和尚となる。金栄はこの数年後、正法眼蔵の大家に出会う。

7 23歳の若さで一寺の住職に
 号を穆山とする(穆山金栄和尚)。お寺は牛込の鳳林寺、常日頃の陰徳から檀家の要請を受けて住職となる。正法眼蔵の参究は続けるが、講義できる師にめぐり会えない。

8 帰郷と母の叱責
 29歳で帰郷した理由は不明。父親の見舞い(翌年死去)なども考えられる。八戸の僧侶や知人から地元で住職することを勧められる。しかし母から叱責が。「お前はこのあたりの僧侶のことを是と思うか、非と思うか、ここらの僧侶は学問も品行もは甚だ宜しくない。一人として人の師範たるべき者はないではないか・・・」。慙愧の念で江戸に戻る。正法眼蔵の参究を決意する。

9 正法眼蔵の参究に命をかける
 衆目の一致する高僧ではなく、世間から奇人と怖れられた月潭(げったん)老人に弟子入り。小田原海蔵寺住職月潭和尚は剛直、辛辣な性格で、ほとんどの雲水は1ヶ月と留まれなかった。月潭老人に12年間随身し、正法眼蔵を2巡聴講する。月潭老人は金栄の名を瑾英(きんえい)と改める(穆山瑾英大和尚)。35歳のとき静岡県三島の如来寺住職を命ぜられる。正法眼蔵の講義を聴くため、連日三島から小田原まで箱根超えで往復する。

10 宗参寺の住職
 宗参寺は徳川家御朱印付きの名刹。受戒会には篤姫(天璋院)も来る。幕末には檀家の側用人室賀甲斐守を官軍、幕府残党の双方から守った。この頃から弟子(随身)入りを希望する者が集まってくる。

11 明治維新 神仏分離令(廃仏毀釈)
 江戸時代から廃仏思想はあった。寺院僧侶の驕りが原因。維新後、各地寺院の取り潰し、寺領の没収など仏教の危機。穆山は明治6年法服廃止の議を撤回させた。穆山は僧侶の肉食、妻帯を非難。仏法を救うには、僧侶の徳を高める意外なし、と論じた。

※正法眼蔵とは
 曹洞宗開祖 道元禅師が著した「正法眼蔵」とは、道元禅師が32歳から54歳までの23年間に弟子や大衆に説示した教えを集めたもので、一般には95巻としてまとめられ、日本曹洞宗のもっとも重要な根本教典である。
 「正法眼蔵」は内容的には、正伝の仏法とは何か、坐禅の本質と普遍性、日々の修行のあり方と意義など、仏教のあらゆる問題点が論じられ、科学や哲学も貫き、人間存在の尊厳性を垂示されている。つまり、「正法眼蔵」とは、仏の心・仏法そのものという「正伝の仏法」を指すものであり、体験的修行の実践を強く主張しながら、真に体験的修行によって得られた悟りの世界を『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)として示した。

※西有穆山の功績
廃仏毀釈から仏法を守った。明治6年1月、大法院での法服廃止論を覆す。廃仏毀釈、僧侶肉食妻帯に異議を唱える。「婆言七條」「弾僧侶妻帯論」を世に問う。遺棄されそうになった仏像を救う。布教のために全国を行脚する。(以上、伊藤氏講義用レジュメより)