八戸三社大祭の歴史・江戸編

 

八戸自由大学第7回講座より抜粋

講座名
「江戸時代の八戸三社大祭の歴史」

講師・三浦忠司氏(八戸歴史研究会会長)

三浦忠司氏略歴  (昭和23年生まれ八戸高校、弘前大学卒業青森県立高等学校教諭を経て、八戸市史編纂室長となり平成20年八戸市立美保野小中学校校長を退職。現在、八戸歴史研究会会長、安藤昌益基金会長、八戸地域歴史団体協議会会長、安藤昌益資料館館長。近著に『八戸藩「遠山家日記」の時代』(岩田書院)など)

講座より抜粋

1 八戸の祭礼行列の始まりと祭礼経営
  法霊社の祭礼 
八戸城下町の祭礼は法霊社の祭礼。八戸藩ができる以前は本丸にあり、寛文4年の八戸藩が誕生したときに二の丸に遷座。盛岡藩の時代から八戸城の館神、八戸藩時代には藩を鎮護する藩神的地位にあった。

 祭礼行列の始まり 享保6年(1721)7月19日に始まる
 享保5年(1720)6月、「打続天気悪敷御座候ニ付(中略)先年モ法霊御祭礼御輿ニ・・・・」(同年八戸藩日記より」、町人たちが御輿渡御を町奉行に願い出る。同年8月、今年は間に合わないので、来年の祭礼日から渡御を執り行いたいと再願。藩では翌年の享保6年より渡御行列を行うことを認める。

2 行列帳に見る祭礼行列の変遷
  享保6年の行列

  御輿を中心とした行列。法霊別当を支配する修験総録(総支配頭)の常泉院行列が随行。出し(山車)が運行されず、後年の華やかさがないが、笠鉾と太神楽・踊子が付祭として加わる。行列の道筋は祭礼の基盤となる城下の町人町を一巡、通輿は三日町から西の上町を通り長者山旅所へ、還御は旅所から東の下町を通り、城中へ。

 延享4年(1747)の行列
榊が先頭、行列の最後に付祭の「御町行列」集団が付いた。町行列に「出し」が登場し、出しの前後に笠鉾・太神楽・踊子・乙名・押奉行・押人がしたがう。享保と比べると「見られる祭り」が強く意識され、格段に華やかな行列構成となったが、出しの内容は不明。

 人形屋台の登場
八戸に人形出し屋台が登場するのは、文献的には天明3年(1783)である。西町屋の「法霊祭礼飾物仕出心得之事」に、新たに人形屋台を細工して二台所持し隔年に使用したとある。この時期には御輿を中心とする神事行列よりも華やかな人形屋台が町衆の関心を集めた。

 天保4年(1833)の行列
 行列の基本的構成は延享4年と同じ。神楽獅子や神馬が登場し、五色吹流しや白熊毛長柄槍、花色幟が加わり、行列に彩りか添えられて華やかさが増した。「七年飢渇」が幕を開けた年だが、延享と比べて参加人員や練物内容がより豪華になった。藩政時代の行列の基本要素はほぼここで完成したと言ってよい。町行列には大幡・対幡・鮫村虎舞・三日町笠鉾、青龍刀などの9台の出し、八日町笠鉾、打毬騎士10騎、供馬5疋、鮫や湊村の風流踊子が続き、出しが主役となる。出しの所有者は、商人持ちが武田信玄、僧正坊、真田左衛門左、関羽、弁慶、式三番双の6台、町内持ちが青龍刀、金平、草刈山王の3台となっている。

3 酒屋仲間による祭礼経費の負担
  法霊御神事諸入用覚をみると、祭礼経費は城下の酒屋たちで組織される酒屋仲間に賦課され、この負担金で祭礼行列が運営されていた。酒屋が祭礼経費を負担した経緯は不明。八戸の祭礼は有力商人が主導して祭礼を運営していたから、経費も有力商人層で負担する仕組みができたのか。八戸の有力商人層を代表する商人には酒屋が多い。酒屋は八戸という都市で酒の加工業を営み、都市の必需品としての酒の生産・販売利益を独占的に享受していた。酒屋の仲間数は時代によって異なる。嘉永2年(1849)の酒屋仲間の場合は、大塚屋市兵衛、美濃屋宗七郎、近江屋市太郎、西町屋石橋文蔵、大丸屋石橋善兵衛、種屋伝右衛門、河内屋八郎兵衛の七人で構成され、これに休業中の若狭屋善八と古屋浅吉が加わった。祭礼運営をする役職に神事支配人がおり、酒屋仲間から年番で選出。町政の最高責任者たる庄屋の指揮下にあり、藩政後期には3人ぐらいが就任。

4 八戸藩の祭礼政策
 
 飢饉時の商業振興
 飢饉のときでも商業振興上、人形屋台の運行を指示。天明3年の大飢饉では祭礼どころではなかったが、祭礼行列は実施された。ただし人形屋台は参加できず、幟や踊り、神楽や虎舞などの練物を削減して質素に実施された。翌天明4年も、出し屋台は商人の店の前に飾られただけで行列には参加できなかった。出しは銘々の家の前に置かれ、行列は御輿のほかは榊、幟、笠鉾だけが巡行し、常泉院の供廻やしゃぎり(男児の踊り・お囃子)踊りは省略された。天明5年に飢饉が終息すると出しの行列参加が行われる。「天明3年の大凶作以来、城下も村も困窮したが、当年は諸作の模様が宜しいので、諸人気補いのために、出し人形を出すように」と通達。出しを行列に練りだすと、「ひとしお御例祭賑わしく」なった。賑わいは新たな消費需要を創出。天保7年(1836)は大凶作。翌8年には運行の自粛を命じたが、例年通り出しは巡行した。天保9年には出しは店の前に置かれ、行列には参加できず。翌10年にはお通りには参加させなかったが、お還り行列には出しの引き回しを指示。出しが参加しないと祭礼は盛り上がらず、都市への集客装置は働かなかった。

 大火時の商勢復興
 出し行列による商業振興策は大火後の城下の商勢復興にも採用。文政12年(1829)4月、八戸町400軒余が焼失する大火の際、総町では今年の祭礼行列には出し屋台を出さないことを決定。ところが藩では屋台が出ないと祭礼行列が成り立たないとして、西町屋に人形屋台の練り出しを命ずる。

 通常時の商業策
 飢饉という非常事態だけではなく、通常の城下商売でも同じ施策が採用された。急な雨模様の場合はやむを得ないが、そうでないときは出しや踊り子たちは勝手に解散してはならない。諸見物の賑わいのために出しを長時間運行するようにと指示が出される。

5 出人足問題と祭礼
 行列が盛大になるにつれて、幟や出しの持ち人、練子やその付添い人、道具持ちなどの供回り衆が増加をみる。天保期には出人足で生活の糧を得ていた日雇い層の存在が顕在化。天保9年の飢饉の最中に、庄屋は祭礼実施の可否を酒屋仲間に諮った。酒屋仲間は「私どもはどのようでも構わないが、行列が中止になれば、小間居(こまい・その日暮らしの貧しい人々。細民ともいった)たちが人足の出役がなくなり生活が立ち行き難い」と答えた。前年の行列では祭礼2日間で518人の人足が出ていたので、飢饉の最中であっても行列の中止はできなかった。天保年間(1830~43)以後の出人足(神事2日間の行列中)は、天保初年の400人台から嘉永年間(1843~53)には600人を超えた。この出人足には出し持ち人足が入ってないので、これらを加えると実数はもっと増加。(三浦氏の講座用レジュメより)