「八戸が生んだ傑僧 西有穆山」 ~今こそ無私の生きかたに学ぶ~

 

八戸自由大学第9回講座より抜粋

講座名
「八戸が生んだ傑僧 西有穆山」 ~今こそ無私の生きかたに学ぶ~
第2回 羽仁もと子は穆山和尚からなにを学んだか

講師・伊藤勝司氏(西有穆山禅師顕彰会副会長)

講師略歴
 昭和19年、満州国大連市生まれ。昭和41年弘前大学教育学部卒業と同時に八戸市立湊中学教諭に採用。平成11年八戸市立湊小学校校長。西有穆山禅師の研究を始める。同19年八戸市史編纂委員、現在に至る。

講座より抜粋

穆山和尚の後半生

○可睡斎住職(明治10年~25年)
 可睡斎は東海道随一の禅寺。寺の名称は徳川家康から拝した。静岡県の袋井にあり、敷地は10   万坪。秋葉総本殿(火坊守護)がある。

○学僧たちを育てる
  雲水を教育するために、可睡斎内に万松学舎を設立する。後に高僧となる雲水、僧侶が穆山の弟子(随身)になる。この頃より全国から講演の要請が殺到し、各地で眼蔵会などを開く。

○大本山永平寺貫主選挙(明治24年)
  候補者は西有穆山と森田悟由(大休悟由)。僅差で森田悟由が選ばれるが、当初は穆山が優勢であった。なぜ穆山が選ばれなかったのか。それは「穆山」という名が難字のため、正しい字を書いた者が少なく、多くは誤字で無効票となったため。これは裁判沙汰にもなったが、覆ることはなかった。穆山はその後、選挙そのものや以後のことにはまったく無関心で、この件を語ることはなかった。

○修行僧の教育に専念(明治25年~明治33年)
 可睡斎を隠退する。静岡県島田の伝心寺に移る。およそ8年間、後進の指導にあたる。「正法眼蔵全講」の著者、岸沢惟安はこの時代の弟子。

○横浜西有寺に移る(明治33年)
  横浜の信者たちが中区に用意した広大な敷地に伽藍を建立した。寺の名称は西有穆山に因んで西有寺(さいゆうじ)。一般市民のために毎土曜日、正法眼蔵他を講義している。また、東京にも出かけて一般市民のために講義している。現在でも西有寺は全国に数少ない僧侶教育施設(専門僧堂)である。

大本山貫首、曹洞宗管長になる(明治34、35年)
  明治34年、大本山総持寺貫首(住職)となる。翌35年、曹洞宗管長となる。明治天皇より「直心浄国禅師」の称号を賜る。受戒会、講義などで一年の三分の一を全国巡教に歩く。

西有寺に隠退(明治38年)
  明治43年12月4日、90歳で遷化。

西有穆山の功績
「正法眼蔵」を世に広めた

正法眼蔵の参考書(解説書)を出版する。若手眼蔵家(指導僧)を育成した。敲唱会(えんぜつかい)を開催する。一般の人々(在家居士)にも説いた。横浜西有寺、東京「積徳会」で講義を続ける。「人を育てることは最高の功徳だ」と言っている(利他行の最高は教育ということ)。

真の僧侶として生涯を全うする
廃仏毀釈で疲弊した仏法の確立、普及を図る(僧侶にも、一般人にも)。特に僧侶には持戒、徳行を勧めた。浄財はすべて世の中に騎手喜捨した(多い年で千数百円。現在の貨幣価値で三千万円ほど)。食事、生活スタイルなど、人の模範となる生活を送る。

羽仁もと子との出会い、そして西有穆山から学んだもの

羽仁もと子とは

青森県八戸町の南部藩士の松岡家に生れ、非常な勉強家としての小学校時代をすごし16歳の時、日本で最初の女学校である東京府立第一女学校に二年間、その後更に二年ほど、キリスト教主義の明治女学校に学ぶ。のち、教師の経験なども経て報知新聞社に入社。生涯を通して共に事業を営んだ羽仁吉一と1901年に結婚。1903年、家庭雑誌「家庭之友」をおこし、今日まで続いている「婦人之友」となった。1921年、自由学園を創設。1930年、「婦人之友」の誌友会として「友の会」が開かれ、今日では全国に会員がいる。
     /『羽仁もと子著作集』より

もと子、伝心寺を訪ねる(明治32年)
  報知新聞社に入社したもと子は、同じ八戸出身で大僧正となっていた西有穆山に取材と面会を求めたが、当初、多忙を極めていた穆山にはその時間がなかった。だが、病気で療養の身となったことから、取材を受ける時間がもてるようになる。もと子は檀家の家に宿泊させてもらい、3日間、取材をする。その取材記事は報知新聞の「人物ト其平生」欄(明治32年8月から9月にかけ、12回連載)で、穆山の生い立ちから修行、徳行、教え等について書く。

○もと子、西有寺に再度、穆山を訪ねる(明治33年)
  静岡県島田の伝心寺から、横浜の西有寺に移ってきたのを機に、もと子はたびたび穆山のもとを訪れるようになる。麻布日ヵ窪の曹洞宗大学林(現・駒澤大学)での穆山の講義には毎朝通った。そして再び報知新聞の「人物ト其平生」欄に記事を5回連載する(明治33年11月)。

もと子が書いた「穆山流養生法と語録」
 師は朝はお粥、昼は普通の食事、夕飯はそば湯などが通例で、13歳のときに剃髪してからは肉類や卵などは一切口にしない。「他家に行って夕飯をご馳走になるのが一番困るよ。晩に大食するとどうもよくない。在家の人は夕飯を食べて、さらに夜食などといって食べる人もいるようだが、よう食べられると思うよ。ワシの経験によると、食べ物を余計に食べるとどうしても身体や精神も爽やかという訳にはいかないね」。

「心の満足というなら、忍耐ほど人の航路に言うに言われぬ満足を与え、自信と希望を起こさせるものはないと思う。小さい例だが、明日でもいいと思うことを、まてまて今日できることならしてしまおうと、己に打ち克ってやってしまったときの心持ち、誰でも悪い気はしないだろう。それが大きなことになってごらん、後々まで思い出して終始その当時の満足を繰り返すことができるだろう。これもやはり寿命の大妙薬じゃよ」

「私は若い頃から朝は未明に起きる。夜が明けてから起きていては何もできんよ」

「普段、無理して食べるということはないな。無理して胃を悪くするよりは、犬にでもやったほうが功徳になる。卵ひとつ食うは、鶏一羽殺すことになる。わしは出家だから鶏食って鶏になって生きるより、人間で死んだほうがましじゃ」

「厳しい冬の早朝でも、顔は必ず水で洗う。水で顔を洗うと皺が寄らないんじゃ。死に顔も醜くないしな」

「信仰が一番。学問はやはり道徳を潤色するためのものだが、今日は学問して悪知恵を巧みに使うのが多いが、本末転倒も甚だしい」

もと子、尼さんになる事を考える
  もと子、27歳の頃は悩み事も多く、尼さんになりたいと穆山に相談する。穆山はもと子の将来について望みを持って見てくれた。もと子に尼寺を紹介してくれる寺などを教える。さらに穆山は巡教で八戸に赴いたおり、もと子の祖父に面会してもと子の願いを伝えた。もと子の祖父は大慌て、穆山に考え直すように頼む。尼僧になることを諦めたもと子を、有力な信者に引き会わせる。もと子の記者という仕事に大いに役立つ。

もと子・吉一、婦人・青少年の啓蒙、教育に生涯を捧げる
  「家庭之友」(明治36年)、「家庭女学講座」(明治39年)、「青年之友」(明治40年)、「婦人之友」(明治41年)を相次いで刊行。「家計簿」(明治37年)、「主婦日記」(明治40年)を発行。明治42年婦人之友社を設立。「子供之友」(大正3年)を発行。「子供之友」愛読者の子供たちを集めて運動会を開催(大正5年)。大正10年、自由学園を創立。校舎の設計はフランク・ロイド・ライト(アメリカの建築家。 アメリカ大陸で多くの建築作品があり、日本にもいくつか作品を残している。ル・コルビュジエ、ミース・ファン・デル・ローエと共に「近代建築の三大巨匠」と呼ばれる)。

もと子は穆山和尚から何を学んだか
1・女性のあり方(穆山の母「なを」の子育てにおける厳しさ)
2・生活・健康のこと(平常心で暮らすための秘訣、一日の行、心の持ち方、食事)
3・教育のこと(人を育てることは最高の功徳、生涯をかけて学僧(眼蔵家)を育てた。