石川啄木と堀田秀子

 

八戸自由大学第7回講座より抜粋

講座名 「啄木と教師・堀田秀子」
~かの家のかの窓にこそ 春の夜を 秀子とともに蛙聴きけり~「一握の砂」より

講師・岩織政美氏(元八戸市議会議員)
岩織政美氏略歴・1935年、八戸市湊町生まれ。1951年、日東化学工業(株)八戸工場入社・私立日東高校卒業。1958年、日本共産党入党。1979年、八戸市市議会当選(6期)。現在、日本国民救援会八戸支部長。八戸医療生協顧問。町畑塾塾長。著書・編書に「永嶋暢子の生涯」「永嶋暢子著作集」「湊トンネル・浜の街」「海の賛歌・浜の風」「啄木と教師堀田秀子」「永嶋暢子と周縁」など。

講座より抜粋

八戸(小中野)出身の堀田秀子は、渋民小学校で啄木と一緒に教壇に立ちました。そした啄木と長い手紙を交わし「一さん」(啄木の本名)の姿を静かに見守りました。「堀田秀子」を通して、『東海の小島』の歌が詠まれたのは「八戸の蕪島」だったという、室岡家のタブーの秘話を追跡し、実証したのが、拙著『啄木と教師堀田秀子』です。
 
堀田秀子は、石川啄木の渋民小学校代用教員時代に、妻の節子をのぞいて、もっとも親しく交わった女性でした。短歌にも詠まれ、創作小説にも仮名で二度登場しており、「日記」にも幾度となくその名が残されています。ところがその「秀子」の実像がいままで明らかにされず、追究されることもないまま、百年近く過ぎてきまきた。「啄木像」については、多くの人によってさまざまに語られてきていますが、「秀子」を欠落させた「啄木像」は、そのもっとも大事な存在を欠いたままの不完全な「像」であったといえます。今回、「秀子」の生涯を辿り、調査をすすめていくうちに、啄木にとって「秀子」がどういう存在であったのか、「秀子」という教師はどういう人であったのか、ほぼ明らかに浮かび上がってきました。そして「啄木と八戸」のこと、さらに「東海の小島」歌とのかかわりも広がってきたのです。
 
●堀田秀子とは
  本名、「室岡秀子」は、八戸小中野の事業家室岡家の娘として明治18年3月29日に生まれ。室岡家は「湊合同運送」(現八戸通運の前身のひとつ)の創業家。八戸尋常高等小学校(現八戸小学校)、八戸実業補習学校(現八戸東高校)、三戸郡教育会手工科講習受講、岩手師範学校女子部を経て小学校の教員、岩手・沼宮内の堀田家の養女となる。
 
●堀田秀子は啄木にとってどのような存在だったのか
  歌人であり詩人としての啄木の能力と実績を静かに見守りながら、その人間的弱点と生活能力の欠如をも温かく見守り続けた。実家、養女先が裕福だったことから、啄木に資金的援助もしたようだ。
 
●「東海の小島」とは、どこを指すのか
  諸説あるが定説はない。秀子を調査していくうち、八戸の蕪島であることを確信する。
 
●秀子の消息
  渋民小学校を経て種市小学校に赴任するが、不可解な退職。その後、東京に赴き本郷で小学校の教員となる。啄木の死後、啄木が暮らした本郷で、彼の息吹を偲んでいたのではないかと思われる。大矢ヒデとして嫁ぐが、啄木と交わした手紙が夫に露見し、暴力などを振るわれていたらしい。
 
岩織政美氏の著書については、下記のアドレスをご覧ください。
 
http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/book/2900144.html