平成26年度八戸自由大学第8回講座より抜粋

講師・高橋俊行氏(弘前大学 八戸サテライト客員教授)
 
演題 「八戸の産業を創り出した男たち」       
 
高橋俊行氏略歴  立教大学経済学部経済学科卒業。1992年八戸信用金庫小中野支店長、根城支店長を経て、同信用金庫理事・営業推進部長、営業本部長、はちしん地域経済研究所所長を歴任。その後、八戸テレビ放送顧問・営業部長。吉田産業協同組合理事。八戸短期大学ライフデザイン学科教授、八戸短期大学総合研究所副所長。現在、八戸地域社会研究会会長、青森県航空宇宙産業研究会副会長、青森県6次産業化アドバイザー、

昭和51年9月に「はちしん経済レポート」(現青い森信金とれんど情報)を発刊するなど地元の信用金庫時代に培っ経済産業の調査活動の経験を踏まえ、東北新幹線八戸駅開業の経済効果や八戸港舘鼻岸壁みなと日曜朝市、冬季国体の経済効果、八戸漁連30年史など、地域の現状分析や成長産業の研究調査に携わっている。また、営業推進本部長時代のマーケティング活動の実践ノウハウを生かし、地域における人的ネットワークと東経連ビジネスセンターなどの東北地区の産業技術のネットワークを活用しながら、地域の中小企業の経営ノイノベーシンの支援と若手経営者の人材育成と地域経済の再生に貢献する。

 

講座より抜粋

八戸最初の百貨店を創った男
  三浦萬吉は八戸初の百貨店を創業した。八戸町生まれの事業家、幼名は喜七という。昭和2年(1927)に明治29年創業の三萬呉服店を継ぎ、昭和9年には八戸で最初の百貨店を開業した。

 このとき、畳での座売りから当時としては画期的な立ったままでの対面販売や、マネキンを使った陳列販売に切り替えた。また彼は、八戸では初めて女子社員を採用、客いすを備え売り場を二階まで設け、店内を下駄ばきのまま買い物ができるようにするなど、八戸の商店街に新風を吹き込んだパイオニアでもあった。

 戦前の萬吉は、八戸銀行常務として再建に尽したほか、八戸呉服洋装商業組合理事長、商工会議所副会頭も歴任する。しかし、そうしたデパート「三萬」の全盛時代は長くは続かなかった。太平洋戦争中は経済統制により商品が思うようにそろわず昭和19年(1944)に閉鎖、さらに戦後米軍司令部に店舗を接収される。昭和27年に再開するも、戦前の約半分の売場面積でのスタートであった。

 その後、萬吉は自ら会長に退き、娘の万喜に百貨店経営を任せ、吹上の田屋で悠々自適の生活を送った。昭和41年、73歳で生涯を閉じる。 
 
三光ストアー 関本三郎
昭和34年、東北でも最も早い衣料、雑貨のセルフサービス店で、「変わった店ができたそうだ」とお客が殺到し、ブラジャーが飛ぶように売れた。
 
「セルフサービスの店もりやま」 森山千年春
昭和38年、7月に開店した中央スーパー小中野店は、売り場100坪の八戸最初の本格的食品スーパーで、チェーン店の始まりだった。
 
東北最大の酒造メーカー 村井松三郎
 1889年(明治22年)八戸市在住の村井倉松が、その製造権を継承し、村井酒造店を設立、清酒「桃川」の製造販売を開始。昭和2年、松三郎が村井酒造を設立。第2次世界大戦時、戦時立法の企業整備令により1944年(昭和19年)青森県上北郡・下北郡二つの郡下の製造業社が企業合併し二北(にほく)酒造株式会社を設立する。合同当時は13業者だったが、昭和20年、独立分離や廃業するものなど辛酸の時代を経て桃川 以下5つの銘柄が残った。そして、各銘柄の経営基盤が整ったことにより、1984年(昭和59年)桃川以外4銘柄を新会社として二北酒造株式会社より独立分離させ、「桃川株式会社」と改称し現在に至る。
 
日本一のエネルギー産業 阿部真之介(戦後復興期の八戸の政商)
明治29年生まれ。大正7年、八戸木炭、同9年、宮古林業を創業。同13年に陸運、海運事業に乗り出す。昭和3年、八戸合同運送の監査役。同8年、八戸港運輸監査役。同16年、旭商会監査役。同年、県薪炭商組合連合会の理事長。同27年、八戸港湾運輸社長。同31年、八戸通運社長。同40年、国有林材生産協同組合理事長。戦後の政財界の黒幕(影の政治家)とも呼ばれた。 
 
イカ釣り漁業の技術革新を興す 浅利熊吉
 昭和27年頃、ヤマデ(50m以上の深い場所にいるイカを釣る漁法)の両端に釣り針を連結し、先端に分銅をつけた浅利式ヤマデという連結式漁具を開発した。
 
1937年(昭和12年)、浅利熊記は、マスクに空気嚢(袋)を取りつけ、呼吸動作に連動して自動的に吸気圧が調整されるj自給式潜水器を作った。