畑中美鈴の「自在定規」

 
 
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短編小説「リンクの童子」 No-2





友華が久しぶりに八戸を訪れたのは、仕事のためである。フリーの編集者であり、ライターでもある友華に、雑誌社から声がかかった。「青森県のまだ知られてないB級グルメ、これを徹底的に調べて書き上げてくれ」。友華が子どものころ、八戸に住んでいたことを知る編集長からの依頼である。気が乗らなかったが、引き受けることにした。

取材予定は十日ほどである。活動の拠点を中心部のホテルに決め、チェックインしたときだった。フロント受付で記帳すると、若いホテルマンに声をかけられた。名札には『副支配人』と書かれている。

「大変失礼ですが、小学校のとき、八戸中央小学校に通っていた友華ちゃん、いや、友華さんではありませんか?」と、聞いた。

「ええ、そうですが・・・」と、友華。

「オレ、オレですよ、俊哉、いや、悟空!」。

友華の脳裏に、二十年以上前の悟空の顔が蘇った。意地悪はされなかったが、何かとからかい、嫌味を言っては友華に不快な思いをさせたあの悟空が、洗練されたホテルマンとして再び目の前に現れた。

久々の再会を果たした二人は、夕食を共にした。俊哉は、思い切って友華に訊ねた。

「上手く滑れなかった友華ちゃんが、たった一週間で、びっくりするほどのスケーティングになっていただろう。今でも不思議だ。いったい誰に教わったの?」。

俊哉の問いに、友華は

「コーチ、私にはスケートの名コーチがいたのよ」と、微笑むのだった。

 

取材はきっちり十日で終わり、明日は東京に戻るつもりである。夕食まで時間があるのを知った俊哉が、フロントに貼られたポスターを指差し、「どう、行ってみない?」と声をかけた。それは『氷都八戸・スケ―トの歴史展』というもので、ホテルの近くにある図書館で開かれていた。

「近いうち、長根スケートリンクは、屋内リンクになるらしいよ。今回の歴史展はいわば、消えゆく長根リンクへ向けた惜別の企画といったところかな」。

友華はとっさに、少年の顔を思い浮かべた。

 

八戸市周辺の冬は、雪が少なく厳寒で、空気が乾燥しているため、点在する貯水池には、良質の氷が張り、格好のスケートリンクになった。そのため昔から、老若男女がスケートに親しんだ。昭和二十二年、戦後の混乱の中、冬季スケート国体は八戸市で開催され『氷都八戸』と呼ばれるきっかけとなった。展示会場ではそうした歴史を写真中心に紹介していた。

 一枚のパネル写真が友華の目に飛び込んできた。『満州から八戸へスケートのバトンリレー』とタイトルされたものだ。

日露戦争後、多くの日本人が満州へと渡った。そのなかで長野県人、東北出身者が冬の時期、下駄スケートを楽しみ、それが他の日本人にも伝わった。やがてロシア人との交流から、本格的なスケート技術を学び、スピード、フィギア、共に技術は飛躍的に向上する。敗戦の後、満州から引き上げた人々のなかに巧みな技術を持ったスケーターの一団が八戸を訪れ、その技術を若い世代に伝えたという記述に友華は関心を持った。そして次のパネル写真に目を移したときだ。その写真の少年に身が震えた。「コーチ!」。

 

『この少年は満州在住時、天才スケーターと呼ばれ、各種大会で数多く優勝、新記録を打ち立てた宮本直人君である。このまま成長すれば世界的なスピードスケーターになるであろうことは誰も疑わなかった。だが、敗戦により日本へ帰還、やがて八戸に住まうも、病気によりわずか十二歳で、悲しくもこの世を去った』。

プレートにはこう説明書きがあった。

動揺している友華を、俊哉は人気のない場所に連れて行き、その理由(わけ)を聞いた。友華はあの出来事を初めて打ち明けた。

 「俺のオヤジも同じ体験をしたって、聞いたことがある。どうにも上手く滑れないでいたとき、ふっと子どもが現れて滑り方を教えてくれた。それがこの宮本さんなのか?」。

 「コーチは、生前、長根リンクでスケートに打ち込んでいたのね。その後も、リンクに現れては子どもたちに手ほどきをしていた。私、幻を見たの?」。

 「いや、たぶん童子(わらし)だ! 座敷(ざしき)童子(わらし)を知っているだろう。宮本さん、童子(わらし)になってこのリンクに住み着き、滑れない子どもたちを見つけては、教えていた。このスケートリンクで大きな事故もなく、みんなが安心して楽しく滑ってこられたのは、宮本さんが見守ってくれたからだよ」。

 俊哉の説明を聞きながら、友華は写真の宮本直人をじっと見つめていた。「コーチ、あなたって、いったいどんな人だったの?」「誰でもいいべ(・)。それ(・・)よっか(・・・)、上手くやってるか、友華ちゃん」。

そんな声が返ってきたような気がした。

 

一年後、友華は再び俊哉のホテルにやってきた。今回は大きなトランクと一緒だった。

「突然の予約だから驚いたよ。今回も長めの取材になるの?」。

「ええ、八戸だけで一ヶ月以上はかかるわ」。

「八戸だけって、どこか他も訪ねるの?」。

「そうよ、八戸が済んだら、中国、そして最後はロシアの予定なの」。

市内が一望できるホテルのレストランで、再び八戸を訪れた理由(わけ)を俊哉に話した。

「私、今年で三十五歳になったわ」。

フリーの編集者、ライターとして第一線で活躍していくには、『実績』が求められる。実績がなければ、仕事の依頼も途絶える厳しい世界だ。編集者としてベストセラーの本を何冊か企画する、又はライターとしてノンフィクション、フィクションを書き上げ評価される、それが『実績』である。友華もその分岐点に立たされていた。

「私ね、コーチが生まれてから亡くなるまでの十二年間を追ってみたいの。それまで敵対していた中国人、ロシア人と、なぜスケートを通じて理解し合えたのか。それと日本人にスケートを教えたロシア人のことも調べてみたいし」。

「それは、日本の近代スケートの歴史をひも解くってことだろう。大丈夫か? かなりハードな仕事になりそうだぞ」。

「そうね。何年もかかる仕事だってことは覚悟しているわ。でも不安はないの。なぜかって? だってコーチと一緒の旅ですもの、大・丈・夫」。

『そうだ。心配するなって友華ちゃん。一生懸命頑張れば、必ず誰かが手を差し延べてくれる。世の中、そういうものだって』。

そんなコーチの声が、また聞こえたような気がした。

外は、しばれている。

 

友華の旅立ちを急かすように、今日もしんしんと雪が降っている。


※この短編小説は、第55回デーリー東北新春短編小説で特別賞を受賞したものです。