日本初のセネストは八戸から起こった

 
平成27年度八戸自由大学第1回(通算88回)講座より抜粋
 
演題 「新世紀の光を求めて~労働三権獲得運動の始動」
日本鉄道株式会社機関方ストライキ117年の歴史的意義を振り返る
 
講師 江刺家均(えさしか ひとし)氏(郷土史家)
 
講師略歴  昭和24年青森県生まれ。昭和35年、上杉修氏(郷土史家)に師事。同47年二松学舎大学文学部国文学科卒業。雑誌編集者、八戸準看護学院、予備校、野辺地工業高校、光星学院、八戸調理師専門学校講師などを務める。平成5年、青森県芸術文化奨励賞、八戸市文化奨励賞授賞。現在、郷土歴史講座・はちのへふるさと塾主宰。はちのへ歴史探訪倶楽部代表。はちのへ郷土研究会会長。青森県いたこ巫技伝承保存協議会会長。長嶋暢子を偲ぶ会副会長など多数活躍。著書・共著に「日本消費組合小史」「写真で見る八戸の戦後」「絵で見る南部八百年史」「八戸の旅・ふるさと歴史散歩」「最後のイタコ」など多数。
 
 
講座より抜粋
 
1898年(明治31)2月24日、当時最大の私鉄であった「日本鉄道」の尻内(現八戸)機関庫から、機関方(機関士)らによる同盟罷工(ストライキ)が発生し、一日を経ずして東北、関東の全線全機関庫に広がった。この罷工を指導した中心人物は、尻内機関庫の機関方、石田六次郎(岡山県出身)だった(石田は罷工直後に解雇、後に復職、1919年尻内の区長を歴任)。この争議は今日の労働組合組織の原型となるもので、さらに現在の「日本国憲法」の労働者の権利確定と憲法起草に関わることにもなった。

 

争議の経緯

日清戦争後に全国各地の工場で労働争議が増加する中、1898年に日鉄の機関方や火夫が「我党待遇期成大同盟会」を結成し、待遇改善を要求する日本鉄道機関方争議を引き起こした。単なる賃上げ等の待遇改善だけでなく、職名改称(機関方→機関手、心得→機関手心得、火夫→乗務機関生、掃除夫→機関生)による労働者の地位向上も掲げていた点で従来の労働争議よりも進歩的と言える。各地で嘆願書を一斉に提出し、遵法闘争を開始した。これに対し日鉄側は石田六次郎、安居彦太郎など首謀者10名を解雇することで対抗したが、機関方は電信で連絡をとり2月24日夜に一斉ストライキへと踏み込み、400名ほどが罷業、東北本線上野駅- 青森駅間の全線で列車が運休する事態に陥った。ストライキは27日頃に終結したが、その後4週間に渡る組織的団体交渉の末に同盟側が勝利した。そして争議を終えた4月5日に同盟は解散され日本鉄道矯正会が結成された。

労働組合としては労働組合期成会の支援により鉄工組合が1897年(明治30年)12月1日に発足しているが、それに対し矯正会は日本初の企業別組合とされている。他の鉄道会社からの加入要請は拒み、飽く迄も企業別組合に拘った。その上労働争議という設立経緯もあり鉄工組合よりも結束の度合いが強かった。全員加入制を目指しており他の業種にも影響が及び、1899年(明治32年)には会員数が約1,000人に上っている。争議資金の積立も行っていたという。

特徴

矯正会」という名称は労働者の社会的地位向上を目指したものであり、そのため会員の修養と技術錬磨を重視し悪弊の解消を目指した。会員にはキリスト教徒や禁酒志向者が多く、石田をはじめとする日本鉄道機関方争議の首謀者も半数がキリスト教徒であった。1898年末に石田は他の矯正会員とともに禁酒会を設立し、一般社会への働きかけを行った。だが1900年以降には社会主義支持へと転化していった。

解散

1900年(明治33年)に第2次山県内閣が治安警察法を制定したことにより、労働運動は衰退の一途を辿ってゆく。

1901年(明治34年)、明治天皇の陸軍大演習視察のため11月6日に御召列車を上野駅より出発させた。その後11月10日に列車は瀬峰駅へ向け仙台駅を出発、小牛田駅に停車した。だが先行列車牽引機の蒸気圧に不具合が発生し、瀬峰駅手前で停車していた。そのため定刻を過ぎても先行列車からの到着連絡が小牛田駅に入らず、御召列車はそこで停車したままだった。連絡を待つわけにもいかず、運転取扱規定を無視し強引に御召列車を発車させたところ、機関士が先行列車を確認し急ブレーキをかけた。

追突事故には至らなかったが、矯正会が大演習に対しストライキを計画していたというデマが流布していたこともあり、蒸気圧不具合も矯正会の工作関与が疑われた。現に先行列車の牽引機は以前にも機関士より不具合報告があったものの、点検をせずに運用し続けていた。結局この事故の処遇を巡り政府より矯正会に解散命令が出された。労働組合期成会、社会民主党や鉄工組合もこの時期に解散命令が出されており、労働運動は一時衰退へと向かっていった。(以上、ウィキペディアより抜粋)
 
 
石川啄木の周辺と啄木の「ストライキ」
 
日鉄のストライキは啄木が12歳、中学生のときに発生した。奇しくも啄木の姉の夫が日鉄の経営者側に付いていた。事あるごとに「ストライキなどもってのほか」と聞かされた啄木は、姉の夫、経営者サイドに嫌悪の情を抱くようになる。やがて啄木が15歳のとき、中学の担任であり、啄木の面倒をよくみた教師が辞めさせられたことに抗議し、ストライキを起こす。これが原因で中学を退学した啄木は故郷の渋民に帰り、小学校の助教となるも、校長の排斥運動を起こしてここも去ることとなる
 
「日本国憲法」への影響 GHQ憲法起草調査会委員、ベアテ・シロタ・ゴードンの証言から
 
私(江刺家)はゴードン女史と話す機会があり、自分が八戸に住まう者だというと、「ああ、明治の時代に日本初のゼネラルストライキがあったところですね。あの争議は日本国憲法を起草する際の重要な資料とさせてもらいました。なぜなら労働者の権利意識の高揚、労働者ばかりでなく国民にとっての社会的地位の向上、自由・平等の精神があったからです」と打ち明けてくれた。現憲法はアメリカやGHQによる押し付け憲法ではなく、日本の歴史をも踏まえて制定された憲法であることを知る人は少ない。