八戸自由大学第90回講座より

 

 

平成27年度八戸自由大学第3回(通算90回)講座より抜粋
 
講師  工藤竹久氏
 
演題  「八戸地方における弥生文化」
      ~やませ地帯の弥生文化とは~
 
講師略歴  昭和25年青森県むつ市出身。立正大学文学部史学科(考古学専攻)卒。昭和50年八戸市採用(八戸市立歴史民俗資料館勤務)。社会教育課にて根城城跡の発掘に従事。その後、根城の史跡整備に従事。以降、丹後平古墳、丹後谷地遺跡、風張遺跡などの発掘を経て文化課長、教育部次長兼文化財課長、是川縄文館準備室長、八戸市博物館館長などを歴任。現在、青森県文化財保護審議会委員、青森県史編纂専門委員。
 
はじめに
青森県には弥生文化は存在しない。縄文文化のような生活が続いていた。かつてはそのように考えられていました。しかし、八戸地方を含めた県内各地から、弥生文化の存在を示す遺物が相次いで発見され、その姿が次第に明らかになってきています。必ずしも稲作適地とはいえない地域での弥生文化とは。近年の発掘調査成果をもとに紹介します。
 
 
青森県ならびに八戸地域の弥生文化研究
 昭和56年(1981)から58年まで、国道102号バイパスの建設に伴う垂柳遺跡の発掘調査が青森県教育委員会により行われ、平均面積が約8平方メートルと小規模な水田跡が656枚、ほかに用水路や大畔なども検出され、東北地方北部にも弥生文化が及んでいたことが明らかにされ、その時期は田舎館式土器の年代観から、中期後半とされた。
 昭和59年、八戸市南郷松石橋遺跡から出土した壷が、西日本の前期弥生土器である遠賀川式土器であるとする報告が行われ、その後、是川遺跡や剣吉荒町遺跡などからも相次いで同種の土器が確認されるようになる。そして昭和61年、八戸市において開催された日本考古学協会秋季大会において、奈良国立文化財研究所の佐原眞により西日本の遠賀川式土器との比較発表が行われ、東北地方北部の弥生文化はこれまでより約300年も古い時期までさかのぼることが定説となった。さらに昭和62年には弘前市砂沢遺跡でも畦畔で区画された大きい区画の水田が発見されている。これらの遺跡から発見された各種遺物から伺い知れるのは、八戸地方にもたらされた弥生文化の伝播のルートは日本海側だった。
 
 
八戸地方にもたらされた弥生文化
 弥生文化の担い手は在地の縄文人たちだった。縄文最終末の拠点集落で稲作の受容が行われ、河川沿いに分村化していった。弥生水田の発見が予想される遺跡がある。それは根城下町地区の馬淵川氾濫原である。弥生時代に独自に生まれたもの(土偶壷・熊の装飾土器)、西日本に系譜を持たない葬制/土器棺が広がっているからだ。岩手県、津軽、下北方面との関係を示す遺物も多い。谷起島・山王Ⅲ層式・二枚橋式など。
 
風張遺跡の弥生村
 国宝の合掌土偶が出土した縄文後期の遺跡として知られる風張Ⅰ遺跡、実は弥生時代前期に大きな集落が営まれていた遺跡でもあった。弥生時代の竪穴式住居は全部で23棟検出されているが、うち21棟が弥生時代前期のもので、現在のところ東北地方の弥生時代前期の集落としては最も多い住居数を誇る。37号住居からは菅玉・コメ496粒・アワ6粒・ヒエ1粒・イナキビ2粒が検出された。
 
弥生時代の県内地域差
 弥生文化前期後葉になると、県内の弥生文化に地域差が顕著に見られるようになる。下北・津軽半島は二枚橋式が分布。狩猟・漁労・採集経済の性格が最も強い地域。津軽平野は五所式土器が分布。三八上北地方は馬場野Ⅱ式が分布。宮城・岩手方面の弥生文化の影響も強く受けた。
 
分散化していった弥生人たち
 弥生中期になると、遺跡は急速に小規模化する。弥生後期は遺跡数は多くなるが、土器片がわずかに散布するといった程度の場合が中心。生活の実態すら痕跡的になる。気候の寒冷化を指摘する研究もある。終末期から古墳時代前期に、北海道に分布する続縄文土器の分布圏に覆われる。
 
弥生文化を受容して地域は豊になったか
 弥生時代、西日本では水田稲作の余剰生産をもとに、富を蓄えたものとそうでない者の間に貧富の差が生じた。やがて巨大な遺跡が形成され、いくつかの地域を支配する首長が現れる。このような首長は墳丘をもつ墓に埋葬され、古墳文化へと移行していった。
 八戸地方では、縄文晩期の拠点集落に住んでいた人々により、弥生文化の受容が行われたが、この地域では(東北北部全体を含め)弥生文化の順調な発展を辿ることはなかった。
 八戸地方で安定した農耕社会が形成されるのは、古墳時代中期(5世紀代)以降のことで、本格化は飛鳥時代(7世紀頃)からである。弥生文化は、日本列島に稲作農耕社会が広まった時代であり、東西格差が拡大し、その後の歴史の方向性も規定していった時代として、重要な意味をもっている。