八戸自由大学第91回講座

 
平成27年度八戸自由大学第4回(通算91回)講座より抜粋
 
講師  斉藤潔氏
 
演題  「日東化学八戸工場の歴史」
      
 
講師略歴 1939年東京生まれ。元高校教師
 
はじめに
第一次大戦後、日本では飛行機の材料であるアルミニウムを輸入ではなく、国内産原料でまかなおうとしていた。そして八戸にアルミの国産化を目指して工場が作られた。これが日東化学である。同時に化学肥料を製造するために、硫酸工場やアンモニア合成工場が建設された。戦後には肥料工場として発展したが、肥料事情の変化に対応できず、廃業となった。その歴史を振り返ってみる。
 
創業時
昭和12年、日東化学が設立され、八戸に工場が建設される。なぜ八戸に工場が建設されたのか。それは立地条件が良かったからである。当時、満鉄に硫安工場があり、松尾鉱山の硫化鉄鉱が八戸港から輸出されていた。また、東北本線が開通しており、国内各地への輸送も容易だった。工場の総建設予算は1608万円。この額は八戸市予算の20年分にあたる。生産規模はアルミナ51000トン、硫安25800トン及び化学肥料(燐酸20%、窒素16%)20000トンを製造する。
 
操業開始
昭和14年、硫酸工場が稼動。原料は松尾鉱山の硫化鉄鉱。鉛室法により、二酸化硫黄から無水硫酸を作り、濃硫酸に溶かす。後に塔式法も。
アルミナ工場では、大日本製糖所有の南大東島の燐酸土を硫酸で処理する。アルミナ中間体+燐酸。濃硫酸による腐食が多く、失敗か成功か判定できず、アルミナ中間体は福島に送られたという。
藤山愛一郎の回顧「実験室で成功しても、実際に始めてみるとなかなかうまくいかない。純度の高いいいものができるのであるが、機械が酸でどんどん腐食し、経済的に成り立たないのである。つまり原価が非常に高くつくわけである」
燐酸工場では硫酸で処理。アルミナ中間体+燐酸。
燐安工場では燐酸にアンモニアを反応させた。
アンモニア関係ではガス発生炉を建設、灼熱したコークスに水蒸気を反応させ、水素と一酸化炭素を発生させる。空気中の窒素はそのまま使用した。転換工場では触媒により一酸化炭素と水から水素を発生させる。大量の二酸化炭素はそのまま放出した。
アンモニア合成工場を建設する。これはハーバー・ボッシュ法によるもの。合成塔で窒素と水素からアンモニアを合成する。350℃ 300kg/cm2
その他、硫安工場・倉庫、賞賛工場も同時に稼動していた。
 
戦時中
アルミナの原料である燐酸礬土の海上輸送が困難になり、国産原料を利用した。
昭和20年、米軍の空爆をうける。アルミナ工場と硝酸工場が被害を受ける。硫酸タンクは破裂。
 
戦後
油脂工場を買収。油脂に水素を添加して高級脂肪酸を作る。高級化粧品などの原料となった。当時は三白景気でセメント、硫安、砂糖がもてはやされた。
肥料の増産体制を図る。アンモニアの増産では電解工場を建設。水を電気分解して水素を発生させる。大型の水素ホルダー、酸素ホルダー、酸素の販売に乗り出す。リンデ工場を建設、空気から窒素と酸素を分離するもので、酸素を販売。
硫酸を増産。キルンの増設。アルミナの焼成装置を転用。
製鉄試験に臨んだが、硫化鉄鉱の利用に失敗する。
 
昭和29年、肥料2法が制定され、肥料価格は低下、社員の採用停止、合理化をはかる。
 
昭和34年、ドライアイス工場の建設。これは二酸化炭素を圧縮冷却して固化させるものだが、ぜんそくを引き起こし、公害問題となった。
 
昭和35年、ガス源転換。テキサコ工場の建設。原油を熱分解して水素と一酸化炭素を発生させる。
空気分離工場の建設。膨張タービンで空気から窒素と酸素を分ける。
電解工場、リンデ工場、ガス発生炉の廃止。
硫酸工場の近代化をはかる。流動炉の導入、公害の減少につながる。
 
昭和37年、新肥料の生産。尿素工場の建設。原料はアンモニアと二酸化炭素。
複合肥料の生産。単肥から複合肥料への移行。
石膏ボード会社設立。燐鉱石から分離された石膏の利用。
スルファミン酸工場の建設。人口甘味料だが、成功したものの、環境問題で中止となる。
その他、日東金属、ガラス繊維強化プラスチックのFRP事業など各種事業への進出をはかる。北日本造船、下水道処理場に土地を売却する。
 
昭和46年、工場を縮小。硫酸工場の廃止。
 
昭和57年、肥料工場の分離。コープケミカル設立。燐酸工場の廃止。
 
平成10年、日東化学は三菱レーヨンに吸収される。