八戸自由大学第92回講座

 
平成27年度八戸自由大学第5回(通算92回)講座より抜粋
 
講師  蛇口剛義氏
 
演題  「利水事業に懸ける夢」
     
     ~エピソードから見える蛇口伴蔵の哲学~
      
 
講師略歴 八戸市生まれ。元高校教員(八戸水産高校、八戸高校、南郷高校、八戸高校校長)。現在、学校法人八戸学院光星高校特別顧問。岡田茂吉美術文化財団八戸市部長。八戸市バレーボール協会顧問など。
 
はじめに

幕末、八戸藩の武士である蛇口伴蔵は、商人侍と揶揄されながら20年間蓄財に励んだ。そして全財産をつぎ込んだ利水事業はことごとく失敗に終わった。伴蔵の甥、渡邊馬渕は少年時代に伴蔵から受けた薫陶、あるいは後で知り得た「一家言」などを大正7年奥南新聞に書き残した。逸話や記録から伴蔵の行動の理念を探る。
 
蛇口伴蔵とは
蛇口 伴蔵(へびぐち ばんぞう、文化7年(1810年) - 慶応2年9月8日(1866年10月16日))は、江戸時代の八戸藩士で八戸地方の水利開発に尽力した人物。

名は胤年(たねとし)、山水と号す。儒学国益思想家。八戸藩士・葉山治右衛門の子として生まれ、18歳の時に蛇口家の養子となる。

伴蔵は八戸地方の水利事業に尽力した人物で、母袋子(八戸市)、相内(青森県南部町)、下洗(八戸市南郷区)、階上岳(青森県階上町)、小軽米(岩手県軽米町)などの上水を企画した。安政4年(1857年)、上水事業に着手し、八戸市大杉平及び糠塚と階上岳蒼前平の開田を果たしたが失敗に終わった。

開発資金は、商売で得えた私財を投じ、技術は現在の青森県十和田市の三本木開拓で新渡戸家から援助された。一方で三本木開拓には伴蔵側から無償で資金援助をしている。(以上、ウィキペディアより抜粋)
 
21歳のとき、江戸勤番を命じられ、昌平黌(しょうへいこう)の佐藤一斉の門に入る。また、八戸藩の木崎流砲術指南の立花文助から易学も学んだ。儒学者になる志しを立てていたが、立花から「まずは家産を修めるをもって最要事となさん。財豊にしてしかる後に為すことあらばその欲するところに従わん」と諭され、
蓄財に励み世に尽くすことを決意する。それからは一心不乱に倹約と商売に励む。高利貸しもした。そのため人からは「商人侍」と罵られたが、20年後には水田約30町歩、現金約3万両のほか土地や貸付金など莫大になった。その間、藩の役職を馬糧奉行、金奉行、台所奉行と歴任、吟味役にまで出世する。
 
安政4年に隠居。48歳にして念願であった利水事業に取り組む。しかしことごとく失敗に終わり、莫大な財産も底をつき57歳で生涯を閉じた。伴蔵の志は明治28年に奈須川光宝らに、さらに大正2年に近藤元太郎に受け継がれた。そして現在、八戸平原総合農地開拓事業という国の事業に進められている。
 
八戸平原総合農地開拓事業とは
 
青森県八戸市、階上町と岩手県軽米町の新井田川一帯の、未開発の山林を農地として開拓した国家事業である。青森県南及び岩手県北の県境は付近を流れる新井田川とその周辺の丘陵地帯は20mから130mの高低差があり、雨量も少なかったため農地として生産性が低い土地だった。

八戸平原開発構想は藩政時代から蛇口伴蔵などが私財を投じて計画していたが資金難で頓挫したが、その後1950年代に再浮上し、1976年(昭和51年)に本格的な事業が開始された。当時の時代背景として、食糧増産と急増する水使用量に対応するため、農地造成、既墾地の区画整理、農道整備、農業用排水施設整備、ダムの建設が行われた。ダムは同事業者の灌漑用水の他、青森県の新井田川総合開発事業における防災機能の強化、八戸圏域水道企業団と種市水道事業の上水の4事業者の共同事業で建設された。

しかし、当初は水稲増産を目的としていたが国の農業政策の転換により、途中から畑作を中心とする灌漑農業地帯の形成を目指すことになった。また、農業用水確保と洪水対策として新井田川に世増ダムが建設されが、節水技術の進歩、人口減少や農業生産の停滞により水使用量が当初の計画よりも減少している。

このような情勢の変化もあったが2004年(平成16年)に事業が完了した。2009年からは世増ダムから給水が開始され、八戸圏域水道企業団の白山浄水場から周辺8自治体に配水される予定である。また、世増ダムは100年に一度の洪水に対応する防災機能も備えており、新井田川周辺地域の洪水被害の軽減が期待されている。
 
伴蔵の言葉より

「一家のために富を求め、子孫に財産を遺すために働くは牛、馬と変わるところなし。我は決して守銭奴にあらず」(20代)

「同士の危急を傍観するは交誼にあらず。不足を補うは通義なり。これ、あに尋常の貸借ならん耶」(新渡戸十次郎への資金援助)(46歳)
 
「書を積んで子孫に残すも子孫読むことあたわず。金を積んで子孫に遺すも子孫これを守ることあたわず。陰徳を銘々のうちに施すに如かず」(晩年)
 
「大業の成就は三代の後に期すること。予、不才を以って成功を見ざる。然し後世何人かが奮起して我が遺業をなすものあらん」(56歳)